平成31年3月6日(水)にボランティアガイドの研修会が催されました。NOBURINはガイドができるわけではないけれども、誘われて仲間に入れてもらっています。その研修会があるというので出掛けました。現地研修で、竹成の大日堂・五百羅漢と、杉谷の杉谷遺跡へ行きました。
大日堂と五百羅漢はよく知ったところですが、杉谷遺跡は30年ほど前、今はなき菰野町の歴史研究家第一人者の佐々木一先生に連れて行ってもらったことがあります。久しぶりに出掛けるので愉しみにでした。
マイクロバスで杉谷地区にある熊野神社の駐車場までゆき、そこから徒歩で山道を約15分ほどゆくと現地に到着しました。左の写真は五輪の塔つまり鎌倉時代から室町時代初期の墓石です。しかし、現在五輪の塔がこのように整然と並んで立っているわけではなく発掘のとき仮に立てて並べたときの写真です。現在は散乱した状態になっています。
戦後古陶ブームがわき上がり、この杉谷遺跡でも 古陶マニアが密かに盗掘して、その盗品の流通段階で検挙されて、盗掘の場所は、菰野町杉谷であるとの供述からにわかに杉谷が注目されました。これを三重県博物館が知るところとなり、博物館の指導のもと、杉谷地区が協力して発掘調査が進められたのでした。第一次発掘調査が昭和38年6月、第二次発掘調査は昭和47年3月~4月。NOBURINが佐々木先生につれて来てもらったときは第二次発掘の直後だったので五輪の塔が並べられていました。
左の写真の壺は五輪の塔の下に埋もれていた骨壺です。盗掘によってどれだけ持ち去られたのか分からないけど、調査によって発掘されたのが51個です。左の写真はその一部ですが菰野町の収蔵庫に保存されています。またそのうち特によい7点は、菰野町図書館郷土資料コーナーに展示されています。
また、五輪の塔は約200基ほど発掘されました。鎌倉時代から室町時代初期の約300年間200人ほどの人が埋葬されたのではないかとのことです。この遺跡の付近には観音寺跡、杉谷城趾、熊野神社などあって、埋葬されたのは、お堂の僧、修験者、寺に仕える大工、城主またその関係の人もいたかも分かりません。
さらに、遺体を荼毘に付した火葬の穴も見つかりました。この火葬の穴の一つはプレハブの小屋に保存されています。
杉谷遺跡ができた時代は鎌倉前期から室町後期までということです。では、その時代杉谷はどんなところか興味がわきます。現在さしたる大きな地区ではありませんが、その頃釈迦が岳の麓では山岳信仰が盛んで修験者などが修行をする山寺が散在したようです。「椙谷寺」「池堂」「八角堂」「念仏堂」など記した文書があるそうです。また、杉谷遺跡の近くには「観音寺跡」という所も見つかっています。鎌倉時代前期に藤原筑後守実重という荘園領主か地方の豪族かの実力者が現在の桑名市志知周辺に定住して盛んに周辺の社寺に参詣しさまざまな奉納をし援助をおこなっていたという日記「作善日記」が見つかっているそうです。杉谷山岳信仰の寺群もその恩恵に浴していたのだろうと言われています。
左の写真は杉谷遺跡の隣にある杉谷城趾です。1500年頃の城跡ということですが城主は誰であったかと言うことは不明です。
織田信長が根の平峠で杉谷善住坊に鉄砲で狙い撃ちされたという人物は、この城趾とは関係ないと言うことです。
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菰野町よもやま歴史教室では、平成30年10月4日(木)、戦国時代群雄が割拠した三河・遠江・南信の境目の激戦地にあって、徳川家康天下獲りの分岐となった長篠城跡・設楽が原古戦場跡を見学、最強を誇った武田馬軍団と織田・徳川連合軍の決戦状況を懐古しました。
天正三年(1575)武田信玄の後を継いだ武田勝頼は西へ勢力をのばすために重要な拠点となる長篠城を1万5千の軍を率いて包囲し攻撃した。時の城主奥平貞昌以下500の兵は、よく攻撃に耐えたが、大軍に抵抗するにも限界となったため、織田信長、徳川家康へ救援を請うため鳥居強右衛門(とりい すねえもん)らを岡崎へ遣わせた。5月18日、信長3万、家康8千の援軍は城の西方約4㎞にある設楽原に到着して陣を築いた。武田軍は20日、長篠城の包囲を解いて設楽原へ進出し、21日の夜明けとともに織田・徳川軍の陣地に突入して壮絶な戦いとなった。
大量の火縄銃の攻撃にさらされ歴戦の武将を多く失った勝頼は、数騎の見方に守られて敗走した。このことから、この戦いは岳だけを没落させ、織田・徳川の勢力を強大にした日本史上重大な意味を持つ戦いであったと言われている。
設楽が原での決戦絵図と火縄銃。この絵図は地元の小学生が卒業記念に制作した物です。
詳しくは、地元のボランティアガイドさんが戦いの様をよく説明してくださいました。下のYouTubeビデオをご覧ください。
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恒例の大日祭が今年も4月14日(土)に大法要・オープニング・演芸発表とともに行われました。翌日は鶏足山 野登寺 住職 道山麿輝師の法話がありました。ここでは、14日の大日祭の一部を照会します。
この大日堂は平成11年(1999年)に新しく落慶されました。その前のお堂は大正5年に田口新田の真願寺本堂を移築したものでした。さらにその前は明治20年に建てられた小さなお堂があったと言うことです。
左から明治20年 に建てられた大日堂、次が大正5年に田口新田の真願寺から移築されて平成10年まで83年間健在でした。右の大日堂は現在のもので平成11年に建立された。
大日如来二体の座像が大日堂に安置されている。この二体は三重県指定有形文化財になっていて、造像されたのは室町時代と記録にあるそうです。左の仏像は金剛界大日如来、右は胎蔵界大日如来です。
左は金剛界大日如来像文明11年(1479年)、右は胎蔵界大日如来像文明13年(1481年)作者は不明。鎌倉躍時代に活躍した運慶の長男湛慶に関係の深い人だろうと言われています。
上の二体の大日如来のお堂を舞台にして毎年賑やかな演芸がくり広げられます。その様子をYouTubeビデオでご覧ください。
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菰野町竹成の中心地大日堂の境内に菩提樹とともに高くそびえていた火の見櫓が、老朽化に伴い撤去されることになりました。
昭和2年4月に竹成村消防組として櫓が設置され半鐘が取り付けられました。太平洋戦争の時櫓の鉄骨が軍に供出され戦争中は木材で櫓が組まれていました。終戦後再度鉄骨の櫓になって今日まで竹成の防火の役割を担ってきました。この度菩提樹の花に囲まれて90年の火の見櫓の歴史を閉じたのです。
撤去前たたずむ火の見櫓
撤去中の火の見櫓
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NOBURINは、10月7日(木)こもの よもやま歴史教室主催の「知多半島」を訪ねる一日旅行に出かけました。行き先は、東海市にある「平洲記念館」、知多郡美浜町野間「野間大坊」、常滑市の「INAXライブ博物館」、半田市「新美南吉記念館」です。
平洲記念館
細井平洲は、江戸時代の享保13年(1728年)、尾張の国知多郡平島村(現在の東海市荒尾町)の農家の次男として生まれました。学問に励み明和元年(1764年)米沢藩の藩主となる上杉鷹山の先生に迎えられました。その後、安永9年(1780年)尾張藩である徳川宗睦の先生に迎えられました。このようにして、彼は、政治や教育事業の指導者として時代に大きな影響を与え、江戸時代最大の学者のひとりとして尊敬されました。
野間大坊
源義朝(源頼朝・義経の父)が家臣の長田忠致・景致親子により謀殺される最期の絵解きが披露されました。
INAXライブミュージアム
紀元前から近代まで、世界の装飾タイル約1000点を展示し、その発展の歴史を紹介する日本で唯一の博物館ということです。
新美南吉記念館と生家周辺地
上の写真は、ゴンの剥製ということです。実は、平成26年彼岸花で有名な矢勝川(物語ではゴンがウナギに首を巻き付けられたところ)の堤で死んでいたのだそうです。その川の土手にはまだ彼岸花がたくさん咲いていました。下のYouTubeのビデオで彼岸花の様子もご覧ください。
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今から5千年前縄文時代中期に菰野町千種地区音羽の鈴山に縄文人の集落の遺跡が発見されました。発見のいきさつは新名神高速道路のインターチェンジ建設に伴って出土したのだそうです。菰野町にはすでに5千年前から人が生活していたということがわかります。また、当時の縄文の人たちが自分たちの村に高速道路ができるということは夢だに想像しなかったでしょう。
鈴山遺跡から御在所岳が見える 鈴山遺跡の掘立柱建物の説明
鈴山遺跡では、土器・石器だけでなく、掘立柱建物、竪穴住居の遺跡も発見されました。これらはとても大きな意義深い遺跡であり、菰野町が誇りうるものだと説明をする係の人が言っていました。
縄文時代中期(約5千年前)の土器は、装飾豊かで芸術性に優れています。下の写真は、煮炊き用の深鉢のイメージと実際に出土した破片です。
も出土しています。左から順に 矢じり・おもり・いしおの です。
鈴山遺跡では、掘立柱建物、竪穴住居、狩猟用の落とし穴、調理用の穴が発見されています。
掘立柱建物跡 とイメージ
竪穴住居跡とイメージ
イノシシ用の落とし穴と調理用の穴
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関ヶ原の古戦場には、孫の蒔喜人君と夏に訪れました。今度、菰野町よもやま歴史サークルで史跡巡りに出かけるというので、10月8日(木)再度、こちらにも参加することにしました。
参加者は、約40名。歴史好きな面々ばかりです。地元のボランテアガイドさんに、古戦場の史跡を案内していただきました。
夏に訪れた時は、歴史資料館で情報を得て、そのまま気の向くまま史跡を訪ねたのでした。今回はガイドさんがついて下さり要所要所の学びのポイントをつかむことが出来ました。
笹尾山 石田三成の陣跡から
西軍の将、石田三成の陣跡から、西軍から東軍に寝返った小早川秀秋の陣のあった松尾山が遠くに望めます。
NOBURINは、この松尾山に是非出かけてみたい衝動ににかられ、後日改めて行ってみました。関ヶ原の合戦で、小早川秀秋の裏切りによって勝敗が東軍に一気に傾いたという。彼は、天下分け目の戦いのキーマンといえる。ここは、一寸と立ち寄ってみる、といえるような所ではなく、標高300メートル、駐車場から徒歩で40分もの所にあります。
松尾山の小早川秀秋陣地跡
小早川秀秋の寝返りの状況が彼の陣跡に記されていました。
ここからも、石田三成陣跡の笹尾山が正面に見えています。
大谷吉嗣の墓
小早川は反旗を翻して、大谷吉嗣に攻め入りました。大谷吉嗣は、小早川隊のみならず、小早川に足並みを揃えた脇谷、朽木、小川、赤座の大軍に襲われ、壮絶な死闘の末自害しました。そこに彼の墓があります。この近くからも、小早川の陣跡、松尾山の頂上が見えます。
徳川家康の最後の陣跡
戦いの後、この場所で敵の武将の首実検が行われた様子が、生々しく絵に描かれています。家康が床几に座って並べられた首を確認しています。
東首塚
首実検であらためられた首は、ここに納められました。西首塚も近くにあり、戦死した武士達が納められました。首洗いの井戸の説明では、上のように記されています。
島津義弘の陣跡と「関ヶ原戦跡踏破隊」
小早川の裏切りによって、西軍の大谷、宇喜多、小西は総崩れとなり島津隊も井伊隊に攻め立てられました。島津隊は、最後の手段として徳川隊をめがけて突進し血路を開きました。そして、大阪へ避難したのです。鹿児島県日置市の青少年は、今でも「関ヶ原戦跡踏破隊」として、その避難の道を歩いてたどるのだそうです。
NOBURINは、はからずして関ヶ原古戦場を3度足を運びました。これまでは、西暦1600年「関ヶ原の戦い」として、年表の上で歴史が代わった時の出来事ぐらいにしか感じていませんでした。ところが、実際に現地に足を運び見聞きし、三時限的に思考を巡らすうちに、戦場における人の内面外面の赤裸々な様を想像することが出来ました。偽情報、密約、裏切り。最後まで忠誠を尽くす義理堅い武士。勇猛果敢に敵陣突破の武将。壊滅とともに自害して果てる武将。味方の全滅にもかかわらず、山中一人敗退の道を彷徨する西軍の将。一つ一つ首実検をする勝ち軍の将がいる。関ヶ原の戦いは血なまぐさい野戦の決戦場であったと同時に、戦士の内面も血みどろだったのかと、思いを巡らしています。
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孫の蒔喜人君が徳島からやって来ました。こちらに来る前から、関ヶ原の合戦跡に行くという希望でした。彼は、最近NHKの大河ドラマのファンで戦国時代に興味があるようです。名古屋に到着後、そのまま名古屋城に行きました。その翌々日、関ヶ原に出かけたのでした。NOBURINも、関ヶ原はこれまで素通りばかりでしたが、改めて武将達の陣地跡に訪れたのは初めてでした。多少、”負うた子に負われた”、感も無きにしもあらず。
訪れた所は
資料館
黒田長政陣地
石田三成陣地
決戦地
徳川家康最後の陣地
長浜へ向かって
石田三成供養塔
長浜城
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平成26年3月29日(土)・30日(日)は菰野町竹成の太平山願行寺では、親鸞聖人750年遠忌大法会がありました。第一日には大日堂境内の五百羅漢からお寺まで約200メートルの道をお稚児さんとその両親が華やかに行列しました。その間 正午から50分間 自動車は交通止めになり歩行者天国でした。当日朝から大日堂集会所ではお稚児さんの衣装替えがあり、境内にはあでやかなお稚児さんと正装した両親でいっぱいになっていました。
大日堂の境内 稚児行列
正午打ち上げられた花火の音を合図に行列がスタート。僧や寺の役員・笛太鼓の楽人を先頭に稚児練りが始まりました。その間、お寺の鐘がのどかに聞こえてきます。
お寺の境内
お寺に着くと大半のお稚児さんは焼香を済ませて三々五々 また大日堂へ引き返します。お姉さんの稚児はそれから法会に参加します。
お堂の中で法会
願行寺は、山号が太平山 宗派は真宗高田派で、室町中期願行法師が1494年に創建したのだそうです。500年以上の歴史のある古いお寺です。江戸時代には代官所の出張所みたいな「代官代行」の寺でもあったということです。
尚、親鸞聖人750回遠忌大法会は、”わたしたちの住んでいる苦しみの世界、迷いの世界をよろこんで生きる道を開いていただいた親鸞聖人への報恩感謝の法会” と 「遠忌大法会の案内」 に書かれています。
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5月第一の日曜日には、毎年 竹成大日堂で献茶式が行われます。その後、境内の藤棚の下では、野点があり お茶券500円でどなたにでもお茶がいただけます。
その献茶式の行われる大日堂の欄間に竹成米発見者 松岡直右衛門 の遺影が掲げられています。あたかも当日の献茶式を見ているかのようです。
境内の藤棚の下での野点の脇には、竹成米広益碑 が立っています。これは、松岡直右衛門を顕彰する石碑です。米つぶの形をしています。
藤棚の下での野点
米粒の形をした竹成米広益の碑
松岡直右衛門は、農業の仕事に精を出す一方、稲の品種改良にも深い関心をよせ、常に観察、研究を怠りませんでした。明治7年、39歳の時 家の稲穂にたくさん籾(もみ)の着く変わり種を3本見つけました。この稲穂の籾をもとにして栽培したところ、一反(300坪)の田で普段より一俵(60㎏)以上多く収穫できました。この米は「竹成米」と命名されて、明治21年頃から東海地方、関東、四国にまで広がりました。
この顕彰碑 「竹成米広益之碑」は全て漢字で書かれていますが、菰野町の歴史生き字引 佐々木一先生が解説した著書があります。それによると、この碑の文章を書いたのは、当時東大農学部教授 後の総長 古在由直(こざいよしなお)により書かれたものだそうです。古在由直は足尾鉱毒調査を田中正造の依頼により実施し、被害農民の主張を立証した人でもあります。
竹成米広益之碑解説(佐々木一先生の著書から)
昔から老農とよぶ人は数えきれないほどいる。その仕事のあとを見るに、いたずらに農事をつとめるだけで一つのことを成し遂げたものは少ない。また一つのことに打ちこんでも、ほかのことに力およばす、成功に至らぬものが多い。農家の人は、おおくは文字にくらく、その仕事労作の苦心の様子を綴りても伝わらず、その人が亡くなって、その業を取り上げることなく雲散霧消(うんさんむしょう)して、これを留める跡がなく残念なことである。
松岡直右衛門君は三重郡竹永村竹成の人、・・・・云々(竹成米発見の由来)・・・明治34年 農商務大臣から褒賞を授与される。この年の11月20日病気により死没する。享年66歳である。その亡骸は竹成の共同墓地に葬る。・・・
その碑文の起草を受け、その事蹟を調べ、そのあらましをのべる。結びのあとにつなぎの
銘として余の感慨を詩に詠む。
農は国のもとい、稲は農の本なり
実の多くついた稲穂は穣々と豊かに波打ち
それは民の飽飯、みちたる食物となる
竹成の郷に 若き篤農生るる その名は直右
その一生心身をつくして 撰種これ一つに努める
天下にその利沢ひろく及ぶ、嗚呼この人
豊受大神の使いなり
碑文の中に「その亡骸は竹成の共同墓地に葬る。」と有るので、NOBURIN 竹成の共同墓地に立ち寄った。早朝墓参りに来ていた地区のおばあさんに尋ねると場所を教えてくれた。
共同墓地の中ではなくその隣に接してあった。確かに墓石に 松岡直右衛門 の名が読める。二つ並んで立っているが直右衛門の墓石の方が小さい。その二つの墓石の他にはなく、明治の当初からのものにちがいない。近くの墓石と比べると質素だ。明治の時代のものはそれが一般的だったのだろう。とにかくひっそりとたたずんでいるという感じだった。
右が直右衛門
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平成24年9月19日(水)竹永地区公民館 敬寿学級9月講座で菰野町にある貴重な史跡を訪ねる機会を得ました。講師先生は、菰野町郷土歴史研究会・代表幹事 諸岡忠至氏です。今回は60ページにわたる資料を準備されて大型バスで午前午後にかけて菰野町内を案内してくださったのです。その講座の中で特に心に残ったのは、町内には多くのお寺があり、どのお寺にも歴史と風格があるのだなあと思いました。
さて、私たち一行45名が堂内で説明を受けたのは次の三か寺でした。
西菰野の正眼寺(臨済宗・妙心寺派)
・薬師三尊像・・・平安時代末期の仏像(三重県指定・有形文化財)
・釈迦涅槃図・・・江戸時代初期の涅槃図(菰野町指定・有形文化財)
正眼寺は、諸岡忠至氏の資料によると、菰野藩主土方家とゆかりの深い由緒ある禅寺であったが、明治維新後は次第に衰退荒廃して現在、檀家は9軒ほどで、本堂もかなり老朽化している。NOBURINはかつて通勤でこの寺の前の道を数年利用していたが、ここに寺があることには気がついていなかった。しかし、このお寺には県指定の薬師三尊と町指定の涅槃図の二つの文化財がある。今回、諸岡忠至先生に案内していただけなかったらこのような貴重な宝を目にすることは出来なかったであろう。9軒の檀家と住職がこの寺と寺宝を守るには大変な努力が必要だろうと想像にあまりある。涅槃図の表装には数百万円の費用が必要だったそうで、住職がかつて勤務していた職場を去るときその退職金の一部で賄ったと聞いた。
正眼寺の文化財
薬師三尊像・・・平安時代末期の仏像(三重県指定・有形文化財)
釈迦涅槃図・・・江戸時代初期の涅槃図(菰野町指定・有形文化財)
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菰野の見性寺(臨済宗・妙心寺派)菰野藩・土方家の菩提寺
土方家墓地・・・歴代藩主のお墓(菰野町指定・史跡)
見性寺はかつての菰野藩主土方家の菩提寺である。諸岡氏の資料によると第2代藩主土方雄高(かつたか)が創建したということである。さすが藩主の菩提寺だけに山門、本堂、庫裏、庭、これが禅宗の寺なのだなと思わせられる風格があった。寺に接して菰野藩主2代から11代の墓がずらりと並ぶ。
見性寺にある菰野藩主歴代の墓
見性寺仏壇
竹成の願行寺(真宗・高田派)
日本画家・伊藤嘉晃氏の襖絵(清風竹林四季花鳥図)
駒寄、巨木のドウダンツツジ
このお寺はNOBURINが野菜作りをしている畑のすぐ近くで、いつも11時になると鐘楼から時を告げる梵鐘の音が聞こえて来ます。ここでも案内がなければ書院にある見事な襖絵に接することはなかった。
願行寺は室町時代中期に真言宗の僧侶 願行法師が創建したという。その後、願行寺は江戸時代、代官所から「政務代官」に任ぜられ、代官所と各村との調停役を担っていた。そのような歴史的経緯を経てか、この寺には竹成地区民のそうそうたる檀家が名を連ねている。本堂の仏壇は豪華絢爛、彫金の施し物は金色で覆われていた。ヨーロッパのカトリック教会の祭壇にも似ている。講師の諸岡氏が解説してくださったことによると、この金色の意味は真宗では浄土の様を現しているのだと言うことだ。また、ここの書院には、日本画家伊藤嘉晃氏の立派な作品 清風竹林四季花鳥図がある。
今回の歴史探訪ではこの3か寺だけでなく、町内にある多くの史跡を案内していただいた。その中で、この三つの寺だけでもそれぞれに長い歴史を持ち、それぞれにいわれのある寺だなと、NOBURINは深く感銘を受けた。諸岡忠至氏が、「その寺の住職や代表の人に歴史やいわれを尋ねることはとても興味深いものだ」と話しておられた。今回の史跡探訪でその意味がよく分かったような気がする。
願行寺の仏壇と襖絵 日本画家・伊藤嘉晃氏の襖絵(清風竹林四季花鳥図)
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