この世の中で「私の物」と断言できるものを探してみませんか。
難しく考える必要はありません。法によって守られる権利ではなく、自分の意のままになるものと定義して考えてください。如何に法によって権利を認められよ うとも自分の思い通りにならない物は「自分のもの」とは言い切れません。

「自分のもの」と断言して他から否定されない「自分の体」は
五感は元より自由な行動が可能です。しかし意のままに体を使うことはできますが一旦故障すれば思うように動かすことは勿論話すことすら適いません。もしも 自分の物ならば自分で修理でき、病気などで苦しみ又命を落とすこともありません。例え自由に使えても我意のままにならないものは「自分の物」とは言えませ ん。

人の体」は産まれたときから
使用期限(寿命)、男女別、体躯の大小等々が定められており、自分の意志でこれを変える事はできません。このように条件付きで自由に使えるものを借り物と 言います。

借り物には必ず貸し主とその目的が存在します。
生かされている・・・とは借り物であることを表し、生きている・・・とは「借り物」の範囲内で自由に使えることを言います。しかしこの世に意識して産まれ てくる人は誰一人としていませんから借りる目的が分からないのです。

借りる目的が分からない場合は
貸し主の目的を知り、その目的に添った使い方が末永く健康な状態で貸して貰える秘訣です。「貸し主」と「その目的」「上手な借り方」を知ることから新たな 人生がスタ−トします。
 

【一口メモ】
借り物の料理包丁で庭木を切ったりスコップの代わりに土を掘り返したりしていれば理由の如何によらず貸し主から返却を迫られ二度と貸しては貰えません。当 然のことですが本来の使用方法を自分の都合で他に代用すれば貸し主の不興はもとより借りる方も不便この上もありません。 何物も製作者の目的に添った使い 方が大切で製作者も使用者も双方が満足できます。・・・・スプ−ンで耳掻きは無理です。

人間は楽しい社会をこの世に実現させる目的で
創造されました。他の動物とは異なる進化を遂げた理由はここにあります。人間は創造時に如何なる状況下にあっても明るく暮らせるように創られています から「創られた目的」を知れば万全です。心身の悩み苦しみはこの目的から逸脱した場合に生じる現象でこれらは人間に秘められた「陽気性遺伝子」に逆ら うことが原因です。

上手な借り方とは
貸し主の目的を知り、それに添った生き方(使い方)をすることです。この世に存在する「人」「もの」全てはその目的を具現する為に必要にして不可欠なも の・・・これが原理原則です。従って自己中心的な幸せの追求は自ら体の不調や故障を招き入れます。この為には先ず貸し主への「感謝」と借りている側の「慎 み」の心が大切です。

「神が人間を創造した」とは
人間の想像を遙かに超えた人体の神秘から常識のようになっております。これは間違いとは言えませんが正しくはありません。人間は創られた当初より自力で今 日の進化を遂げたのではなく、創造主の永きにわたる育成は当然の事ながら今もなお創った体がその目的の為に順調に働くか否か一秒の間断も無い保守作業が必 要です。これが貸し主(創造主)により今も生かされている証拠です。

神秘なものと称される人体の仕組みと働きの原動力は
全て貸し主にあります。人間にできる保守、修理は借り物の範囲内でのみ可能です。この世の中で自分の思うままに駆使できるものは只一つ、「自分の心」だけ です。何を考え何を思い巡らそうともこれは自由ですがこの自由なるが故に借り物である体の使い方(借り方)を誤り自ら故障を招くことになるのです。
 

【一口メモ】
人は生活に必要な物を持参してこの世に出て来るのではありません。裸で産まれてくるのですから一切は時間を限定された借り物なのです。家や土地、財産をは じめ親も子も夫も妻も、全て自分が生かされている間の期間限定付きの借り物です。何故ならば何事も自分の思うようにはなりませんし又何時かは返さねばなら ぬ ものです。人も物も借り物ならば長きにわたって借りられるような借り方・使い方が大切です。

この世には目に見えるものと見えないものがあります。
目に見えるものは事実として無条件に信じてしまう反面、見えないものは事実であっても否定しやすいのが人の常です。しかし見えないからとてこの世に空気の 存在を否定する人はいません。呼吸することでその存在を知るからです。

人と人との信用や親子の愛情も目には見えませんが
日常生活の交流を通して実感できます。人の言動は目に見えない心が見える形として現れてきたものですから言葉や態度でもってその心中が伺い知れます。

見えないものの存在を否定するような生き方は
物事の実体を正しく認識できないばかりか日常生活において身近に生じる苦悩苦難の解決方法さえも見失う危険性があります。これは見える事柄のみをもって判 断し見えないものの存在を疎かにするのが原因です。

神と表現されるものも例外ではありません。
例え姿や形は見えなくても事実関係を知り求める努力があればその存在を知ることができます。