生き物とは死ぬことを前提としており人間も例外ではありません。
人は死後の情報が得られないことから死を恐れるようになり、この恐怖が根拠のない死後の世界を想像させ「あの世・地獄極楽」を作り出したのです。更に根拠のない「あの世」の恐怖は新たな恐怖を呼び起こすことになり、 この世の「心」をあの世の「霊魂」とすることで手の届かない「あの世」を「この世」に結びつけ精神的な苦痛を和らげてきた経緯があります。

「死んだように眠る」「眠るように死ぬ」と言います。
状態にもよりますが、一見して死人と眠っている人の判別は難しいところがあります。人は眠る前に明日の予定を考えますが朝になれば必ず目が覚めるという保 証は何処にもなく永眠となる可能性も否定できません。「今生の別れ」も充分考えられる実に不確かな「明日」であるにもかかわらず何の疑問も抱かずに心配も 恐れもなく眠りに就ける人間が「あの世」を恐れるのは「睡眠」と「永眠」を分かつ「眠る時の意識」にあるのかも知れません。

如何なる術をもってしても
人は差こそあれ死の恐怖から逃れることは適いません。出来ない事を願って徒に苦しむよりも安心して眠りにつける「睡眠」の延長線上に「永眠」がくるように すれば心は安らぎます。いわゆる眠るような臨終です。眠っていた事実は目覚めた時に初めて知るのですから明日の目覚めを信じて眠るような「永眠」は自身が 永眠した事実さえも知ることは有り得ません。

痛みや苦しみ恐怖を伴わない「永眠」は
「健康で死ぬ」ことが条件です。寿命一杯健康で眠るように天寿が全うできれば死を恐れる暇など無いのです。「一日の眠り」も「永久の眠り」も覚醒の有無以 外は大差ありません。人は毎日眠りから目覚めることで無意識の中にも「あの世」を体験しているとするならば「人の死」や「あの世」の捉え方も変わると思い ます。一日一生、一日生涯です。
 

宴会でお酒を飲んで眠ってしまった時、目が覚めた時点で眠っていた事実とその時間を自覚しま す。しかし何時までも目が覚めず生体反応が無くなる時点でもまだ目覚めなければ死の事実さえも分かりません。永久に極楽気分で宴会は続きます。

霊魂の有無やその不滅については
異論もありますが間違いないことは死は自身をこの世から完全に抹消するものではないと言うことです。 親からDNAを譲り受け次々と子供にそれを譲り渡し ますから姿形は異なっても自分の一部は子供や孫の中に連綿と存在し続けます。そしてそれが子供の意識に何らかの影響を与えるとしたら体はなくとも自身はそ の意識を通してこの世に生き続けることになります。

有形である体の耐用年数には限度があり
例え肉体は「この世」から「あの世」に旅立ったとしても無形である意識はDNAにより「この世」から「この世」に限りなく生き続けます。

人の死は「出直す」ことであり
人は死して「あの世?」に行くのではなく「この世」から「この世」に新しく生まれ替わるのです。これは魂(意識)の存在とその生き通しを前提とし耐用年数 の過ぎた古い体を新しいものに交換するため「出直す」ことを意味します。しかし生前同様の環境に産まれ代わるのではなく自分の子供と同じ様な環境の下に生 を受けます。自分の過去(前世)を知るには親を、又来世を知るには我が子を参考にすれば大凡の見当はつくと言われます。
 

古歌に「子供怒るな来た道じゃ、年寄り怒るな行く道じゃ・・」と親子を戒める歌詞があります。 何時の時代も人は親の通った道を辿りつつ又親として子供にその道を残す、子は親の「言う」通りにはならず「する」通りにする・・・・・時と共に立場の変わ る親子関係、今からその心構えが大切です。

身近な人との別れは非常に悲しく辛いことです。
しかし本来、人の死(永眠)とは悲しむべきものではなく新しい体に生まれ替わる為に要する時間の別称なのです。今日一日を健康で働き、十分な睡眠で体を癒 し回復させ、翌朝爽やかな目覚めと共に新しい気分で又活動を始める・・・・体に回復力のある間の眠りが「睡眠」、回復力を失った眠りが「永眠」でありこれ らの違いは回復と再生に要する時間の差とも言えます。
 

死に際が大事と言われます。人生の仕上げ、後を濁さない、潔さ等々の大切さを指して言うもので すが更に重要なことは私達の身体は「借りもの」であると言う事実の認識です。身体は母親の胎内で借り受けますが返す場所は人によって異なりま す。人は眠った場所で目を覚まし、止まった所から歩き始めるのですから新しい身体も返した時と同じ環境の下に又お借りすることになります。次の体をより素 晴らしい環境の下で借りる為にはお返しする時の場所と状況が大切でありこれは布団の上で満足してお返しすれば又布団の上で周囲から喜ばれてお借りできると 言うことです。