人類進化過程を考えると面白い事が分かります。動物は親から子へと代を重ね進化する中で何故人類だけが今日の姿に成ったのか又何故ブタやウマは今でもブタやウマのままなのか?人類と他の動物との根本的な差異は何処にあるのかを考えてみたいと思います。              

(子)人類に与えられた特権の一つは言葉を話す事です。話すことにより情報の伝達が可能になります。伝達された情報が蓄積され又伝達されます。この情報の蓄積と伝達が繰り返されたことにより人類だけが驚異の進化を成し遂げたと推察出来ます。この繰り返しの時間の流れの中に存在する一番新しい情報の蓄積者 が子であるとは考えられないでしょうか。例えば10才児の人生経験は僅か10年ですが仮に父親が30才と すると子供は親の生殖細胞より生成するので遺伝子情報の仕組みから考察すればこの子供は40才になり、更に祖父が60才ならばこの子は100才と言うことにもなります。代々遡って計算するとこの子は言葉を 使い 始めた人類の祖先にまで到達する事になり、年齢10才の子と常識で断定するのは正しくないかも知れません。
 
人の一生は情報の蓄積と伝達を繰り返す時間の流れの一部分であり、与えられた最大の仕事は親から情報を受け次代の子供に伝達するこの繰り返しの作業にありそうです。そしてこの就業時の差が年齢差となり親と子の位置関係を構築すると考えられます。子供を親から完全に独立した一人の人間として考えるのは無理がありそうです。過去と未来の接点が今日であるように子の存在は連綿としたの時の流れの一部分に過ぎず子供にとって親を抜きにして語ることは自分自身の全面否定にも繋がりかねません。 

子は親を選ぶ事は出来ません。子は親の予備軍です。時間 の推移と共にその役割分担が変化するだけの事です。子のなすべき最大の仕事は情報を蓄積して親としての資質を備え次代に伝達する事にあります。その為の準備期間が子供と称される年代と言えます。例え子供が親の全てを超えたとしても別段不思議なことではなく至極自然の事ですから子は親に対して一時的にも優越感を持つのは大きな誤りです。何故なら子供は親の延長線であるという原理原則が存在するからです。人間で有る以上これを逸脱することは不可能な事であり、自身の存在価値を無に至らしめる事になります。生死不明、様態を問わず親の何たるかを自分自身に銘記をする事が重要です。

親と子の人間関係は空間を共有するそれぞれの時間の流れ(生存期間)において、情報の蓄積と伝達を繰り返す位置関係を意味します。これは自然界が人間に与え続けてきた宿命とも言うべき最大の仕事であり、社会生活を通してこの目的は達成されます。ここに人類進化の原点が存在すると考えられます。
 
子に親の扶養義務はないと誤解する人もいるようですが、民法877条文に「直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養する義務がある」と明記されております。しかしながらここで子供の義務責任、親を大切にという道徳じみたことを述べる気などは全く有りません。自然界の法則より判断して親から心の離れた子供の生き様を推測する時、親無くして子供の幸せは無いと断定するのに何の差し障りがあろうかと思うのです。

・・・(譬えば)・・・血液は人間の生命維持に不可欠な命のもとですが、付着した血、事故等により流れた血はなぜか嫌われます。又生命と同じくらい大切にされる女性の黒髪も抜け落ちた髪は不潔なものとして扱われます。爪も同様です。この差違は生命力を与えている本体(体)に繋がっているか否かにあります。自分の存在基盤(親)を無くして自身の確立は望めません・・・
 

子供が成長して親になると決めつけるのはいかがなものでしょうか。子供が成長して大人になることは出来ますが誰もが親になれる訳ではありません。子供が出来て初めて親と称されるのですから正しくは子供が親と言う呼び名を与えてくれたのです。自分の力でなれないものの一つが親なのです。子供ができたなら直ぐに親になれるかと言えば無理があります。正しくは親になるスタ−トラインに立たされたに過ぎません。子供の姿に自身を重ねて反省しこれを教科書として努力に努力を重ねる育児の中から親としての資質が自然と備わり永遠に残る親子の絆が生まれてきます。
 

親と子の年齢は同じです。何故ならば子供の誕生と親になれた時点は同じだからです。 親子は相互に成長するこの原則を忘れると大変です。時折親の意に叶わない子供を指して生まれ損なったとの暴言を耳にしますがこれは間違いです。正しくは育て損なったと言うべきです。子供は親の所有物ではありません。凡そ自分のものとは自分の意のままになるものを言います。親子の原点は共に選べない事実の受け入れから始まるのですから子供が親の意の儘にならない方が自然なのかも知れません。親の存在していた事実を後世に伝える生き証人でもある子は情報の伝達と蓄積を永遠の時間の中で繰り返す親自身かもしれません。

子供は器楽奏者、親は作曲者兼指揮者。親の教えたスコア−通り、指示通り子供は演奏します。親は芸術家、子供は世界唯一の芸術作品です。完成された作品の価値は作品に責任は有りません。責任は制作者にあります。親の期待・希望通りでないとして子供を叱責する親は自分自身を否定している事になります。自分の人生を否定する親に子供を責める資格は有るのでしょうか。教えた通り横這いに歩く我が子蟹を見て縦に歩けと叱る親蟹ほど非常に悲しく愚かな事はありません。

「親孝行」が死語に成りつつあるそうです。この言葉は教える人が身を以て模範を示す以外次代には伝承されません。「親孝行」と言う言葉は本来子供が使うべきであって親の使える言葉ではありません。出来ない子供が多いのか、それとも教えた親が少ないのか。親孝行の言葉を口にする親自身が親であることを忘れているのかも知れません。親も子も親子の何たるかを今一度考え直すことが家庭の崩壊や悲劇を未然に防ぐ切り札になると信じて止みません。