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【索  引】


 
容器と中味 種は正直 所有物とは 偽りの人生
物事の評価 善と悪の区別 お金について 水に学ぶ
親の役割 人類の進歩 交通事故 社会は公平?
大衆の団結 トイレは必要 少年法の改正 寿命と病気
凶器とは何か 老人と子供 好きと嫌い 道徳の基準
非行の原因 知らない方が ギャンブル 就職と転職
大安と仏滅 向く方向 人生の壁 親子の衝突
親子の不和 夫婦の不和 IQとEQ 悪い家庭
個人と結婚 夫婦の愛は 叱ってくれる 妻の破壊
人生アキラメが ゆとりの人生 子供は作るな 落とし穴
好きが仇 たかが結婚 不完全なもの リ−ダ−
家庭教育 育てる極意 有りそうで? 夫婦の値打
子供は天使? 大人&子供 心の下痢 死に甲斐
こんなはず? リズムの世界 宗教は必要? 嫁と姑
嘘も方便 子供と教育 金を儲ける 平等とは
火に学ぶ 運命とは



 

 
容器と中味−−−容器は特に中味を選ぶことはありませんが、中味はそれに相応しい入れ物と置く場所を決定するものです。例えばお茶は湯呑み、酒は杯、ビ−ルはグラスと言うようにそれぞれ使用されます。同じ容器でも入れる中味により置く場所が異なります。紙コップに付いて言えば飲物ならばテ−ブルの上に、汚水ならば流し台に、小水ならばトイレに置かれます。きれいな容器であっても中味が汚物ならば捨てられるか容器ごとゴミ捨て場に置かれます。また中味が相当の物ならばより相応しい容器に入れ換えられます。

人間も同じ事が言えるのではないでしょうか。如何に外観は素晴らしくとも豊かな人間性を失っていては楽しい人生は送れません。もしこの事を忘れ現在の地位に甘んじて居るならば失脚は必定です。反面、今は如何に在ろうとも張りのある心意気で居るならば必ず相応しい環境が与えられるものです。家庭・職場・地域社会における地位、役割等に満足出来なければ原因は容器にあるのでは無く中味にある事を反省したいものです。#Back to Top


 
種は正直−−−農園には様々な野菜が栽培されています。どのような種を蒔いたのかは解りませんが収穫物を見れば一目瞭然です。たとえ蒔いた種を忘れていても種通りの物が実るのは自然界の摂理ですから。人間も自然界の生き物ですから摂理が適用されるのは当然です。現在置かれている自身の状況は良くも悪くも現時点における結果・収穫ですから 他人に原因を求める事は出来ません。良くなければ自身で処理し今までの価値判断の基準を見直す事が大切です。 #Back to Top

 
所有物とは−−−所有する物とは一般的に自分の意のままになる物と認識して差し支えはないと思われます。区別すべきは所有物とそれらしき物です。これを混同すると致命的な過ちをしてしまいます。意のままにならぬ物は先ず寿命、健康、夫、妻、子供等々身近な物から始めて無数にあります。意のままになる物は意(自分の心)だけです。豊かな人生を送る為には自分の物とそうでない物とを区別する事から始めることが肝要です。#Back to Top

 
偽りの人生−−−座右の銘として目につく言葉に(言行一致)があります。また偉人の伝記を読むと広く知られる業績とは異なる心情を吐露する記述が目につきます。これから考えると人生は姿形(目に見える業績)に残る部分と心情(心)の軌跡により成り立っていると言えます。社会的に高い評価を受ける人間は必ずしも高い豊かな人間性を持っていると断言する事には抵抗があります。

興味ある挿話をどうぞ。Aさんは夜間帰宅の途中現金を拾いました。かなりの金額で当時金策に困窮していたAさんは周囲に人影がないことを確認し、「天の助け」とばかりに良くない事と知りながら懐中に入れようとしたその時、警察官が通りかかった。Aさんは不運とあきらめ渋々届け出をした。警察官いわく。「不景気極まる今日、正直に届け出をされるとは希有な方です」と表彰され地域社会で高く評価されたとの事。当人いわく「仕方なくしただけだ」。中味は大切であると思う。私の人生に他人に後ろ指を指される事はないと断言できる人は果たしているのでしょうか。#Back to Top


 
運命とは−−−社会通念上、人生において人間の力の及ばない現象とでも言うことができます。しかし1%でも変えられる可能性があるものについては該当しません。運命と断言できるものは、現在ならば親も子供も互いに選ぶことが出来ずに生まれて来た事、将来の事については人は必ず死ぬ事くらいです。必要以上に運命にこだわる事は自身の努力を低下させるのみならず楽な道を選ぶ言い訳に使うようになり易いものです。

人間はそれ程変わるものではありません。確認する良い方法があります。数年前の古い週刊誌を取り出しこれらに関する記事を読み現在と対比することです。全ては人間のする事ですから統計をとれば共通点は多くありますが必ずしも一致しません。一致しないからこそ偶々一致した事が記事になるのです。運命らしき物は生活の指針により常に変化しますから運命は絶対的なものではなく自身が創るものです。運命にこだわる自身の精神状態を省みる事こそ大切です。#Back to Top


 
物事の評価は変化する−−−他人のものを盗れば処罰されますが国を盗れば一国の主です。顰蹙ものですが、ひとを殺せば殺人者となりますが戦争時においては多くの敵を殺めた人が英雄と称えられ神様にもなります。盗る事、殺す事の本質は変わりません。これは価値判断の基準をその時代の求める利益におくのが原因です。過去の歴史を学び批評するのは易い事ですが現時点の感覚で評価することも正しいとは言い切れません。

時は常に流れ人の心は時と共に変化します。「消費」と言う言葉さえも「敵」と「美徳」の評価を交互に受けてきました。現在の感覚で物事の評価を全て良しとする処に繰り返えされる悲しい人類の歴史があります。 容認できないことは何時の時代でも誰でも容認できません。正しい基準は時間空間を超えて誰も反論出来ないものであることが必須です。日常生活に於いても自分にとって都合の良い事と正しい事を混同しないようにしたいものです。     #Back to Top


 
善と悪の区別−−−大きくは人類に対する利益の有無による区別も一つの方法です。小さくは害鳥益鳥のように自分にとっての利益如何により区別され易いものです。しかし自身の求める利益の本質を看過すると善悪の判断ができなくなります。あの人は自分の性格に合わない、合わないから嫌いだ、嫌いな性格は悪い性格だと言うような図式は誤りです。あの人が悪いのではなく自身の求める利益が誤りなのです。

各自の求める利益により善悪の評価が変わります。又法律で制約するル−ルを逸脱する事は全て悪いことであると断定する事も抵抗があります。社会の利益に基づくル−ルは時代により変化しル−ルその物が間違っている事もあるからです。善悪とも単独で存在する事はなく常に対比され表裏一体のものであるが故に区別する事自体が誤りかも知れません。

毒と薬のように善悪の区別は明確に付け難く、これの判別は何時の時代に於いても同じ評価をされる事が大前提です。強いて善悪の判断を求めるならば、水は高い所から低い所に流れると言うような永久に変わる事のない自然の摂理を定規とする事が必要です。#Back to Top


 
お金について−−−金は人を豊かにしますが滅亡にも導きます。金の本質は力・権力の象徴です。1万円が相当の価値を有するのは国力の裏付けがあるからです。国が破産すれば紙切れ同然となります。労働の結果得た金も強奪した金も同様に使う事が出来ます。この本質を見極めれば金が人を幸福に又滅亡に導くのではなく使い方に左右されるのです。

家族旅行に使えば楽しい思い出が残りますがギャンブルに使えば恨みを残し酒に使えば身を害し異性に使えば家庭を壊す事もあります。同じ金でも紅白の金封に入れるのと黒白の金封に入れるのとでは挨拶の言葉も御礼の言葉も異なります。お金は力であるが故に必要以上に保有する事も全く無い事も人を不幸にします。大切に扱い、友達(お金)を沢山誘って来るような使い方が出来る事が肝要です。      #Back to Top


 
水に学ぶ−−−古来、「水は方円の器に従う」等々水に例える訓話は多く見られます。人体の構成物質の殆どは水分ですからその性質を学ぶ事は価値のある事です。人間の活力源である水が最も力を発揮する状態を研究すれば我々の力も増大するのは必定です。水の分子活動が停滞するのは氷の状態であり、活動が最も盛んな時は沸騰状態にある時です。さらに水は高所に在るほど位置のエネルギ−を保持します。

この事から人間も心が冷たく無関心で氷のようでは活躍出来ません。心が熱く常に外に向かって活動し目標を高く掲げることが大切です。もし今が氷のように停滞の状態に在るのならば、これ又氷に学ぶ必要があります。氷は水面に現れるのは一角ですが実体はそれより遥かに大きなものです。又水が凍る時は岩をも砕きます。苦しい時、辛い時は慌てず騒がずこころ静かに泰然として内なるエネルギ−を蓄積する事が解決の近道です。#Back to Top


 
火に学ぶ−−−火は人類進化の恩人です。人の生死判断は一般的には体温の有無に依ります。人体の構成は水が殆どですが正確には適度の温度を有する水分なのです。熱を供給してくれる火の特性を知ることは充分価値のある事です。山火事のように火は下から上に燃え広がるもので上から下へは燃えにくいものです。山頂の火は目立ちますが長続きせず直ぐに鎮火します。

対人関係も同様です。人間の殆どは水分ですから沸騰させるような状態に置くことが人を最も活動的にする方法です。水を沸かす時は例外なく水の真下に熱源を置きます。このことから人を動かすのに上から命令するのは愚かな事です。山頂の火のように効果が在りそうに思いますが事実は逆になります。心を低く下から徐々に熱くなるようにする事が肝要です. #Back to Top


 
親の役割−−−子供を育てる事に腐心する親を指して「親は無くとも子は育つ」と言う格言は疑問に思うかも知れません。しかしながら育児が親の役目である事に変わりはありません。育てる姿勢が問題です。親である前に人生の良き先輩であることが前提条件です。人間は如何なる細胞も創り出す事は出来ませんから当然の事ながら子供を創ったのでは無く手助けをしたに過ぎません。子供を親の所有物と考えることは出発点から過ちを犯す事になります。先達として模範を示す事を主眼にすべきです。愛情を源とする育児は元来見返りを求めない無報酬の行為であるはずです。

もしも育児に自身の将来を目論見、老後を託すような報酬を求める心があれば自身の可愛さもあって叱る事も叱る時も差し控えてしまいます。結果として子供を不幸にしてしまう事に繋がります。「良い子供で無ければ親が困る」のが本音の育児は親の資格を自ら放棄する事です。親孝行を知らない子供に教える方法は唯一つ親孝行をして見せることです。親が親孝行を口にするとき親は消滅するのです。

高齢化社会において老人が寒い環境に置かれつつある現状と青少年の非行化傾向の増大とは密接な関係にあるのです。果実を大きくする為に直接肥料をかける事は愚かな事で肥料は根に置くべきです。非行少年を追いかける事よりも老人になった親が楽しく余生を送る事が出来るような環境を作ることが先決です。 #Back to Top


 
人類の進歩−−−人類の進歩は無いと言えば暴言でしょうか?マンモスを追いかける人々と比較すれば現代は例えようも無いほど進歩しています。知能の発達と相まって理性的思考は素晴らしいものがありますが本質は何も変わっていないと思います。限り有る生存時間で以て無限であろう歴史を語るのに些かの躊躇はありますが、例えば500年前の人々は他人に誉められた時悲しい思いをしたのでしょうか?裏切られた時も平常心でいたのでしょうか?他人より上位になり、より以上の報酬を願わなかったのでしょうか?自身の事より他人の事を常に優先したのでしょうか?また未来の人々もこのように成るのでしょうか?

現在は過去と未来の接点ですから答えは明白です。昔も今もこれからも人の心は何も変わる事はないのです。如何に高度な文明になろうとも人がつくり出す物ですからその根元は人心にあり豊かな文化生活の実体は夢物語か泡沫の類かも知れません。

教育の目的は学問の授受も大切ですが豊かな人間性を高める情操教育に全力を傾注すべきです。人間は理性や心を失うと直ぐに本質を剥き出し易いものです。憲法をはじめ法律の殆どは人間の本質抑制の為にあると言っても過言ではないと思います。

歴史を紐解く時、僅か17条の憲法の時代から現在の六法までを必要とし今後も条項は増え続けると思います。人類の儚い永遠の夢かも知れませんが法律を必要としなくなる社会は人間が本能の自己管理を全うし、地球上の生態系における人類の特別視を改めた時に出現するのではないかと考えます。ここに人間の文明は名実ともに進化し「人類滅亡」の句は死語となります。
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交通事故−−−被害者・加害者が同居する悲しい事です。結果を予測せず回避義務を怠ると言う過失責任も人間で有るが故に限度があります。事故に遭遇するには基本的に二つの条件が必要です。二つ以上の物体が同地点を同時刻に共有(通過)することが求められます。これは一瞬の事ですから確率的に非常に低くしかも誰一人として望む事ではありませんから奇跡に近い事と思われます。毎日の車通勤も出発時にエンジンの始動が数秒遅れたならば途中で人や車に出合う時間も場所も異なります。言うなれば事故は偶然ではなく必然と考える事もできます。

事故の反省は当然の事ですが、その時だけの過失と判断する事は繰り返しに繋がります。事故は自身の運転方法の延長線上にあるもので、事故を起こすのは日常運転の集成結果であると言えます。小さくとも毎日の自己本位の運転が事故に向かっている事を考える時、事故は偶然ではなく必然なのです。悲しく苦しい事ですが事実から回避せず受け入れる事が大切です。#Back to Top


 
社会は公平か−−−人の社会生活を構成するものには凡そ生まれた場所、親、兄弟、親戚、富、名誉、権力、健康、家族、対人関係、生活環境、収入、等々あります。これらは全てが公開される物ではなく秘密にされる事も少なくありません。知り得た僅かな情報により他人と対比するのは早計であり正しい評価ではありません。人間には「これさえ無かったら良いのに」と思う事が一つはあるものです。

短期的に見ると不公平と思われるかも知れませんが、生涯を総計すれば公平です。知らないから不公平と思うのです。さらに公平かどうかは本来、相対評価をするものではなく自己評価に依るものと考えます。何故ならば人は「自分にとって都合の良いことは正しい事である」と誤解しやすいからです。人の一生を構成するそれぞれの要素を相殺すれば残るものは皆同じです。#Back to Top


 
平等とは−−−全ての人に同じものを与えることが平等と考え易いものですが、これは正しくはありません。大学生・高校生・小学生・幼児にお小遣いをあげる時、同じ金額を与える事が平等でしょうか?寧ろ異なった金額を与えることの方が平等であるとは考えられないでしょうか。人の一生は何事も質・量とも同等に与え、与えられることが自然であり正しいと判断する事は誤りです。

心を癒す音楽も絵画も音や色の違いがあるからこそ素晴らしいのであって、違いがなければ価値も全く有りません。人間社会も違いがある処に素晴らしい調和の世界があるのです。各人のそれぞれ保有する器一杯に与え・与えられる事が平等と言うことです。#Back to Top


 
大衆の団結は可能か−−−人の心が一点に集中する為には共通の敵を持つ時と共通の利益を得る時の二つです。いわば利害関係の一致が条件です。高尚な理論・理屈に人心はいつも集うものではありません。政治も理念だけで事は成し得ません。この群集心理を熟知した上で呼びかける事が団結に繋がります。理論で空腹を満たせないのが人間の人間たる所以です。#Back to Top

 
トイレは必要−−−生命維持に排便は欠かせません。トイレの無い家は無く重要な役割を果たします。排便をはじめ老廃物を投棄処分する場所がトイレならば人間社会においても物事の最終処分をするトイレの役割をするものが不可欠です。全てにおいて自分に都合の良い物のみ摂取して残りかすの処分を放置する傾向は社会の生命維持を阻害し死に至らしめることになります。

学校における「いじめ」問題も成績重視の上から腹一杯に詰め込み教育を施しはけ口を与えない事から級友をトイレ代わりにして終うのが現状です。 これを改善することなく児童の健全育成は能わず心身共に豊かな子供が育たないのは当然の結果です。家族の鬱憤を捨てる場所、職場や学校においてはストレスの捨て所、生活環境においてはゴミの処分場が必要です。

自身のトイレ、家族のトイレ、学校職場等のトイレの有無を確認する事が急務です。鬱憤・ストレス・ゴミ等の捨て場所を設けることがやすらぎある家庭を作り少年の非行を減少させ精神的にも豊かな生活環境を生み出すことになります。ただし様式や場所の選定には家の間取りとトイレの関係を参考にすることが肝要です。
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少年法の改正−−−少年犯罪の凶悪化が進みつつある事から法律の見直しが求められている。対象年齢の引き下げ罰則の強化等議論の余地はある。社会のル−ルを知らない子供に法の強制をする事自体愚かな事である。少年少女を今日まで育ててきたのは強化を叫ぶ親の年代である。出来損ないの子供は誰一人としていない。育て損ないの子供がいるだけである。大人が育児過程で教えなかった事に対するペナルティと反省すべきである。少年法の見直しをするなら育て損なった大人に対する罰則も考慮してはどうかと思う。

子供に事の善し悪しを教える時「***さんが怒るから止めなさい」「***さんが見ているからだめ」と言った教え方をする親が多いものである。事の本質を諭す事なく他人を引き合いに子供に注意した気分になりこれで良しとする傾向が少なくない。このような親に限って子供が事件を犯すと決まって「学校が悪い、社会が悪い」と親の責任を転嫁する。子供は正直で怒る者が居なくて誰も見ていなければどんな事でもしてしまう。

「百聞は一見に如かず」とは全てに当てはまる言葉である。法律で規制する大人が言行不一致では子供が順調に成長することの方が奇妙であり、大人が百回説諭する事より一回でも模範を示す方が効果大である。知力・精神力・経験・体力?が十分でないとされる少年も凶器を使用すれば結果は大人と変わらない事も充分考慮されなければならない。他人に痛みを与えればその痛みの大きさを本人に身を以て教えることも教育である。痛みは人間共通の感覚であるが故に相手の気持ちが良く分かる。#Back to Top


 
寿命と病気−−−人間の命は有限であり、各自その時間は異なります。自分の意志でこの世に生まれてきた人は誰もいないから死ぬ時期も分からないのは当然です。病気や事故で死ぬ人も多いがこれは偶々病気や事故をする時と寿命の尽きる時期が合致したに過ぎません。自分で命を断つ人もいますが、これも病気の延長線と考えても差し支えないと思います。死にたいと願っても生きたいと思っても思い通りにならないが故に寿命といわれる所以でありましょう。

人は生まれた時から死に向かって歩き続けるから生き物と呼ばれます。死の恐怖に怯える事は愚かなことで人生の醍醐味を味わうことは出来ません。恰も推理小説を逆読するようなもので面白くも可笑しくもありません。人の一生は自叙伝の執筆時間なのです。毎日泣いても笑っても1ペ−ジです。嬉しい事も悲しい事も苦しい事も全て題材・資料になり、多いほど読者を引きつけ素晴らしい伝記として後世の人々に読まれます。筆を置くその日まで全巻完成を目標に書き続け、次代に伝える事が人間としての責務です。「寿命一杯健康で」を合い言葉にしたいものです。#Back to Top


 
金を儲ける−−−「時は金なり」との格言があります。しかし「金は命なり」の方が適すると思います。人の一生は一定時間ですから時は命です。限りある時間と体を消費して金儲けをしますからこれは正しく命そのものです。命の代償として金儲けをするのですから命と同等の考えをすべきと思います。労働の代価として報酬を得ますから労働のあり方を考えなければなりません。

農家は他人の為の食料を作り、理容師は他人の頭髪をきれいに、漁師は他人の食する魚を採ります。全ての報酬は他人の為に働く事の見返りとして与えられるものです。他人に幸せを与えた結果に付いてくる物が報酬と言えます。他人の幸せを蔑ろにし自身の為にのみ働いて得る報酬は正当ではなく破滅に繋がります。金を儲ける事も使う事も手段であり目的は心身とも豊かな生活を送る事にあります。楽しい人生は時間・命を大切にする事から始まります。#Back to Top


 
凶器とは何か−−−「これは差別用語だ。ナイフもバットも必要に応じ作られた物です。制作目的に反し犯罪者が使用したとて凶器扱いするとは何事だ!」凶器と呼ばれる物の言い分です。犯罪発生の抑止として凶器の排除は必要かも知れませんが、凶器に化する物は無数にあり出来ない相談です。物が凶器に化するのではなく人そのものが凶器になり器具を使うのです。凶器とされる器具にとっては迷惑な事と思います。凶器と断定して許される物は制作目的以外に使う事がない原爆をはじめとする兵器だけです。排除も禁止も出来ず誰も分からない一番恐ろしい凶器は人間の心です。#Back to Top

 
老人と子供−−−高齢化社会を迎えています。「いまの若者はダメだ。昔は良かった」と嘆く年輩者が多いものですが、これは嘘で昔も悪かったのです。そしてこの類の言葉は旧約聖書にもあるとか?とにかく何時の時代も老人はこの言葉に万感の思いを込めていたものと思われます。理想の若者として良くも悪しくも育ててきたのは人生の先輩である老人ですから、その責任は老人にもあります。社会の後継者を指して「ダメ」と評価する事は自身の人生を否定する事になります。その時代の人間の生き様の総決算が次代の子供ですから反省する必要があると思います。そして「いまの若者はダメだ。昔は良かった」と言う言葉を死語にして下さい。 #Back to Top

 
好きと嫌い−−−好き嫌いの基準は定かではありません。自身が嫌いなら相手も同様です。相手の何を指して嫌いと感じるのかを考える必要があります。自分に合わせてくれる人を好き、合わせてくれない人を嫌いと感じやすいものです。最初にこの感覚を持つと不思議と持続します。その後良くない面を発見しても気に止めないものです。第一印象が大切と言われるのはこの為です。友人を多く持つ秘訣は初対面で相手に合わすことです。合わす事により相手も合わせてくれます。対人関係の悩みは合わす事を忘れた結果と言えます。合わす事は相手を気分良くさせるものです。 #Back to Top

 
社会道徳の基準−−−物事の価値判断の基準はその時代の社会情勢により大きく変化します。殺人は憎むべき行為ですが平時では処罰を受け戦時では多ければ多い程上位の勲章を受けますし神様にもなれます。非常時における人命救助は当然の如くされますが、平常時にても当然なすべき人命救助も善行として表彰されます。行為自体は同質ですがその評価は背景により異なります。社会通念、道徳は時代と共に移ろい易いものですからこれを基準に物事を判断する事は危険です。基準とすべき物は時空を超えて不変不動のものであることが必要です。自分に都合の良い事は正しい事と主張するようなモラルの低下が顕著な時代であれば尚更です。#Back to Top

 
子供と教育−−−子供の教育は専門家と自認する人々にお任せするほど危険な事はない。人は社会生活の産物ですから成長過程は千差万別です。一般論的な指導要領で子は育たない。教育の現場においても然り、育児経験のない教師が子供の教育をする事自体おかしな事であり教育理論を学び研修を重ねても経験不足を補う事は出来ないものです。教師自身が教師と思うのは自由ですが生徒に教師と認識させることの方が重要です。親についても同じ事が言えます。親は学校教育に期待を寄せすぎではないでしょうか?

本来教師に知育以外の物を求めることは無理なのです。求めるとしても最低の集団ル−ルくらいです。残りは親の責任です。株の管理は証券会社に委託しても売買までは任せないのが普通です。もし全てを任すならば損益にこだわる事は出来ません。大切な財産を全て他人任せにすることができないのならば、もっと大切な財産である子供を他人に任す事は出来ないはずです。親は教育を付ける事はできますがそれを応用するのは子供です。身に付けた教育を生かして使えるような子供に育てることが親の仕事です。喧しく説諭し叱って子供が良く成るのならば、子供に泣く親はいないはずですが?為念。 #Back to Top


 
非行の原因−−−少年の「非行」は大人の認識です。子供の認識は「おもしろく愉快な事」ですから繰り返します。行為そのものを責めても矯正出来ません。この価値観の違いは大人が幼児の頃より事の是非を教えてこなかった事に起因します。子供は社会経験も有りませんから大人の面白い事や愉快なことを模倣し、義務責任を問われないことから甘えの構造が芽生えます。非行に対処するにはそれなりの責任を負わせ、事の是非を教える事を優先し距離は違えども大人と同じ方向でものを見る姿勢をつける事が最上です。矯正に多少の痛みは付き物です。 #Back to Top

 
宗教は必要か−−−必要です。但し実生活に密着し、偏見を持たず、選民思想の無い事や教義を知ることにより誰もが明るい豊かな精神状態を保持できる事が条件です。拝んで助かるものならば泣く人はこの世に存在しません。一時の気の迷いから迂闊に怪しい宗教に入信する事は自分の人生を破滅させます。

人間のあり方を整然と説く宗教は時空を超越し、何時の時代の社会生活にも馴染むものでかけ離れたものでは有りません。自宗教のみ正しいとの偏見から排他的な宗教は危険です。これが原因となり宗教戦争が各地で勃発するのです。人類の幸福を唱える宗教が戦争原因となる愚かな事は歴史が雄弁にこれを語ります。信教の自由は憲法で認められており、なにを拝もうと本人の自由ですが「宗教は阿片」であると言う事も全て否定するものではありません。#Back to Top


 
知らない方が−−−あすの経済動向を始め近未来が分かれば前もって準備もでき誤りのない選択も可能となります。人が予言や占いに興味を持ちこれに頼ろうとするのは見えない事や分からない事に不安を覚えるからです。「一寸先は闇」の格言も死語となります。

情報の収集と売買が行われる時代ですが知らない方が良い事もあります。自身の死亡時刻です。この時刻を生まれた時から教えられているならば人間社会は何事も成り立ちません。死期を予測し余生を後悔なく送る人の話を聞きますが、これとても死亡時刻が明確になれば平常心では居られなくなると思います。歴史が語るように、どうせ死ぬのならと自暴自棄になり社会秩序の破壊に暴走する姿は想像に難くありません。

諸行無情を悟り余生を楽しむ人は極めて希な存在でしょうし、いないかも知れません。「戦闘で全滅する事を知っていても私だけは助かるかも知れないと皆が思うものだ」と戦争体験者に聞いたことがあります。医師から死の宣告を受けても一縷の望みがあればこそ人は人で居られるのです。

本来、死は結果として位置付けをし生存中に詮索するものではありません。明日の命も心配ですが寿命の尽きる日時が確定している方がもっと心配で不幸そのものです。人間社会の安寧と秩序は人間の努力だけではなく死亡時刻が分からない事にも大きな関わりがあるのです。#Back to Top


 
ギャンブル−−−賭事で財を成した人は殆どいません。破滅した人は多く見られます。負け続けても止められず、借金に借金を重ね家庭は崩壊、夫婦は離婚、親子は離散とこの世の不幸を一手に引き受けた姿は悲惨そのものです。賭事は恐ろしい遊びと思われ易いものですが果たしてその通りでしょうか?

する度に勝つ方になり高額を毎日得るとしたらどうでしょうか。親子兄弟夫婦互いに奨励すると思います。実際は賭事が悪いのではなく負ける事を悪いと言うのです。勝つ事が良くて負ける事が悪いと言うのは金銭欲以外の何物でもありません。賭事が人生を破滅さすのではなく過度の金銭欲がさせるのです。

負けることも承知でそのスリルを楽しみたい人に面白いギャンブルがあります。賭事は勝か負けるか二つに一つです。人生も二つの道は選べませんし事毎に何れかを選択しなければなりません。生きている限りスリルのある賭事ができ、結果もそれなりに楽しめ破産も破滅もおまけに命を落とすこともある人生はギャンブルそのものです。賭事も人生も過度の金銭欲は身の破滅に繋がります。#Back to Top


 
就職と転職−−−希望する職に就いて現在も自分に適合していると考えている人は多くないとの事です。天職を求めて転職を繰り返している中に自身を見失う事も少なくありません。自分自身がよく分からずに適合職種を探すのは出来ない相談です。「青い鳥」と同じく天職は最初から存在しないもので、貴重な時間を消費して無い物を探すのは愚かな事です。天職は求める物ではなく自ら作り出す物であり、与えられた仕事を天職と思い自身を適合させる努力が天職となります。しかる後その仕事が楽しくなれば転職は随意です。希望する仕事は全て天職となり「天職」という言葉は消滅します。#Back to Top

 
大安と仏滅−−−祝い事、とくに結婚式は日柄を考慮して大安吉日を選ぶのが通例です。敢えて人が忌み嫌う日を選ぶ事は有りませんが必要以上に拘る事は愚かな事です。海外で挙式すれば問題は解消されます。結婚式は人生のスタ−トとして人の最大慶事とされますが、この目出度い式を仏滅にすればいかがでしょう。多くの日柄の中で悪いとされる仏滅の日に慶事をすればそれ以外の日は慶事以上の良い事があると考えられます。一年365日、悪い日はありません。良くも悪くも人間がするのですから。#Back to Top

 
明るい方を向く−−−苦しい時や悲しい時、人生の方向を見失った時は鬱ぎ込む事無く明るい方を向くことが大切です。八方塞がりの井戸の中でも上の方は明るく這い出る唯一の箇所なのです。進む人生の前に陰ができるのは明るい方向に背を向けているからです。人生には陰は付き物ですが、同じ陰なら後ろにあった方が歩きやすいものです。例えば太陽に背を向けて歩むと陰は常に自身の進む方向に出来ますし、太陽に向かって歩むと陰は後ろにでき、前途は明るく元気がでます。おなじ歩むのであれば明るい方に顔を向けて進みましょう。躓く事なく怪我も少ないものです。植物でさえも常に太陽に向かって成長しています。#Back to Top

 
人生の壁−−−何事も思うようにならず閉塞する時期があります。この時こそ自身の利益になる事項を全て放棄すると解決が早くなります。物事を判断するとき人は意識しなくとも自己利益を思考回路に組み込むものです。この情報が柔軟な思考の妨げになります。現在の姿は過去の積み重ねの結果ですから反省が必要です。

人生は大小に関わらず常に選択と決断を求められます。判断をするときは最善、次善の道を選び今日まで歩んできたのです。その結果が良くなければその都度下した判断が誤っていたとも考えられます。情勢の変化も大きな要因ですが情報を駆使し判断をする時点で自分に都合の良い事が正しい事と考えたならこれは誤りです。自分にとって都合の良い事ばかりの人生はありませんから、良い事ばかりを願った時点で判断ミスがあったのです。

人の一生は良い事とそうでない事を相殺すれば0となるのが自然です。例えば都合の良い事をプラスとした時、プラスばかりを求め身に付けることは自身の身辺にマイナスばかりを引き寄せる事になります。閉塞時にはプラス因子を放棄して対策を考えると柔軟な発想ができ困難から脱出できるのです。#Back to Top


 
親子の衝突−−−親子関係の本質を理解する事が大切です。一言で言うと双方とも「恩」の扱い方に誤りがあるのです。子は忘れてはならない親の恩を忘れ、親は忘れなくてはならない育てた恩を押しつけやすいのが原因となります。親も子も互いに相手を選ぶ事は出来ません。ましてや子は親の所有物でも有りません。人類だけが驚異的な進化を遂げた理由の一つである人間の親子の関係を考えてみたいものです。 #Back to Top

 
親子の不和−−−これが原因となり断絶に繋がります。親は子より先に生まれていますから直接の原因はやはり親にあります。夫婦の不和や子供の片愛等がこれに当たります。また一つには親であることの自信と、人としての信念が稀薄である事も挙げられます。急激な社会変化に伴う価値観のズレが理由にされますが、人間の価値は変わるものではありません。

親が子から一人の人間として尊敬されるならば断絶と言う言葉は家庭内においては死語となります。親は人生の先輩として子の真似の出来ない良さが在って然るべきで、もしそれが無ければ真剣な人生を通らなかったと反省が重要です。

また、子が親を愚弄するのは親に原因が在ることが多くの場合認められます。両親が互いに相手の人格を無視する言動の渦中に子を巻き込みあわよくば味方に付けようとばかりに相手の悪口を吹き込む事があるならば子は自我の発育と共に親を軽蔑するものです。家庭崩壊を願うならば夫婦の不和が最も効果があります。 #Back to Top


 
夫婦の不和−−−星の数ほどの男女の中で互いに運命共同者の約束を交わした仲ですから「結婚式」の誓詞どうり人格と愛情を尊重し相互扶助の生活ができるのが本来の姿と思います。決して最初から不和ではなかったのです。よく性格の不一致と言われますが、要するに互いに勝手が強すぎ相手に求めすぎるのが原因です。出発点に立ち返り基本を遵守したいものです。

そうでなければ、乾ききった現代社会で心のやすらぎを得る唯一のオアシス・家庭を失う事になります。人間も鳥と同様帰巣本能があるようです。泣いても笑っても怒っても喜んでも時間の経過は一定で止まる事はありません。永遠の時の流れの中で人の一生は決して長くはありません。一寸物の考え方を是正する事で仲の良い夫婦で楽しく時を過ごせるものです。 #Back to Top


 
嫁と姑−−−何時の世でも人々はこの難問に苦慮してきました。言い換えれば人類永遠の課題とも言うべきです。これ程の難問なれば解決を望むより現実から逃避する事なく受け入れる姿勢を作ることが肝要です。

過ぎ去った人生を偲び後ろを向きながら歩む姑と、これからの人生に多くの望みを託し将来を見つめて歩む嫁とが同じ方向から物を視る事は出来ない相談であり根本的には不可能な事です。これは人間としての本能に基づくものであるが故に代々難問にされてきました。嫁と姑は仲良く出来ないのが本来の姿であり、仲良くしている人は他人には見えない陰の努力があるとの認識が必要です。

とりあえずは双方とも邪推をしないこと、立ち聴き、また聞きをしないことから始めたいものです。某地方で娘を嫁に出す時、「我が子(娘)ひと(他人)の子、ひと(他人)の子我が子(娘)。我家に来るのは自分の子」と言うような格言があると聞いたことがあります。先人の経験から言わしめる言葉で重さを感じます。

もっと大切なことは、ある日突然に嫁や姑になった訳では在りません。特別な場合を除いて一般的には女の子から娘、娘から嫁にさらに母親にそして姑になるのです。嫁も姑も本質は何ら変わる事なくただそれを演じる時間差があるだけにすぎません。嫁も何時かは姑の役を演じ、姑も過去には嫁の役割を努めてきたのです。言い換えれば嫁は姑自身であり、姑は嫁自身でもあるのです。このことを理解すれば同じ道を歩む人生の先輩後輩同志、学ぶ者と教える者の関係には自然と心の交流ができます。もとより、学ぶ者の姿勢、教える者の姿勢が重要な事は言うまでもありませんが。

嫁姑の問題は避けて通れないものだけに結婚を考える女性にとって当初から同居を選択肢としない風潮が見受けられますが、嫁も姑も自分自身が時間差をおいて演じる役割であるとするならば、嫁を演じる時間を放棄して楽な道を選べばやがて姑を演じる時間が来れば未知のものであるが故に苦しい思いをするのは必定です。

その選択は個人の環境により異なりますが嫁姑の同居も捨てたものではありません。人生の先輩から直接指導して頂き経験を積むのですから。経験は大きな自信に繋がります。家庭における嫁姑関係の善し悪しは家庭の隆盛崩壊に密接しています。姑にとっては息子、嫁にとっての夫から活力を奪い引いては孫子の行く末を危うくさせるには嫁姑の不仲が最短距離です。#Back to Top


 
IQとEQ−−−IQとは知的能力を測る知能指数であり、心の知能指数がEQです。一般的にIQの高い人は全てにおいて優秀であり社会的に高い地位を約束され社会のリ−ダ−になれると考えやすいものですが、IQの高い人が必ずしも社会で成功するとは限りません。普通の知能指数の持ち主が大成功するのは、自制・熱意・忍耐・意欲等を含めた心の知能指数EQが高いからであると言われています。EQとは知能テストでは測定出来ないもので、IQとは異質の頭の良さをいいます。

それではEQの能力とは何でしょう。先ず、自身の本当の気持ちを自覚し本心から納得できる判断が出来ること。不安・怒りの感情をコントロ−ルし衝動を自制できること。挫折したとき希望を持って自身を励ますことができる事。集団の中で共感・協調できる事などが挙げられます。また、EQの高い両親を持つ子供は親子関係が良好で自分自身の感情をコントロ−ルでき、これが為に心が動揺した時でも粗暴生や攻撃性が低いとも言われています。

さらにEQが高くなるとIQも高くなります。IQ偏重の教育社会がもたらすものは教育の荒廃以外の何物でもありません。IQを高めること自体が悪いのではなく高める順序が正しくないのです。EQを高める教育に付いてくるのがIQでなくてはなりません。IQの独り歩きする社会ほど危険なものはありません。IQ至上主義の呪縛から解放され心の教育を重視する社会にこそ人間社会の未来があります。#Back to Top


 
 
悪い人々の家庭−−−悪い人ばかりの家庭は険悪であるとは断言できないかも知れません。家族には誤解や失敗がつきものです。トラブルが生じた時、お互いに「私は悪くない。私は正しく悪いのは貴方だ」と主張するのが人の常です。このような家庭には誰一人として悪い人はなく正しくて良い人ばかりです。しかし良い人ばかりの家庭は決して円満に暮らす事ができません。トラブルの原因は全て自分以外の者にあると主張し自身の非を認めることをしないからです。家族全員が「良い人」を主張すると些細な事も解決できません。

問題が生じた時、当事者はもとより「私も悪かった。私にも原因がある」と家族が互いに主張すればトラブルは即座に解消します。円満な家庭の秘訣はここにあります。家族は運命共同体ですから物事の結果を善悪で判断し互いに他を責めても解決には至らず、むしろ離反に繋がります。家庭は何事も治める事が大切です。治めるとは家族それぞれが是非を納得し不満を解消する事です。悪い人?ばかりの家庭は幸福です。#Back to Top


 
リズムの世界−−−まばたき、心臓の鼓動、自然体における呼吸等々人間の体は一定のリズムによって動いています。このリズムの変動は即体調の変化に繋がります。2・4・8・・とリズムに乗って規則正しく倍数増殖する細胞も変調をきたせばガン細胞に変わります。人の精神状態もこの規則正しいリズムに合わすことが健康を維持する上に大切です。極度の興奮や心労は大きくこれを乱します。悲しいことや苦しいことを何時までも心に持ち続けている事はこの基調リズムをも忘れてしまい心身の病気に繋がりかねません。

自然界も永い時の流れに応じて一定のリズムの基に動いています。例えば地球の自転、公転は昼夜を始め四季を我々に与え、潮の満ち引きは人体にも大きく影響するものです。この自然界のリズム変調が異常気象、地殻変動となって現れます。この事を忘れて人間の欲望のままに環境破壊を続けると自然界のリズムを取り返せなくなるかも知れません。リズムの変調は生態系に大きく影響し人類の壊滅に繋がります。

人も自然も与えられたリズムを乱すことなく時を過ごす事が健康状態を続ける秘訣です。人は心の動揺によりリズムを乱し精神状態を悪化させ本来楽しいはずの生活を苦しく悲しいものに変えてしまいます。自然のリズムを取り戻すには先ず動揺の原因を究明する事が肝要です。その多くは自分の思惑通りに物事が運ばない時や予期せぬ事態に遭遇する事などが挙げられます。最も大切な事は原因判明時における対処法なのです。

事態から逃げる事は最悪の結果をもたらします。正面から取り組み自分にのみ都合の良い事(プラス要因)を取り除く事が解決の最短距離となります。これは自身の癖、性格による思考の偏重を除外するためです。ここで初めて為すべき事と、してはならない事とが判別でき間違いのない解決方法の道が開かれます。常に自身の都合の良い事と正しい事とを混同しない物の見方、考え方がリズムの乱れを未然に防ぐ最良の方法です。そして常にこのリズムを身に付けている事が{人生の波}に乗って成功者の道を邁進することになります。#Back to Top


 
個人と結婚観−−−個人とは社会国家を構成する集団に対する個々の人間を表します。個人が個人として存在するには他と異なる事が前提となります。他と異なる個人を構成する要素は歴代先祖・親・兄弟等があげられます。仮に自身を取り巻く血族を一つの集団とした時、それに対する自分の立場が個人となり決して集団から遊離した存在ではありません。

日本は大化の改新以来島国ということもあって他国の侵略を受けずに来た単一に近い民族ですが敗戦によって千年余も続いた統一の価値観が一変してしまいました。これに代わって生まれてきたのが価値観の多様性という言葉です。これが良くも悪くも結婚観を大きく変化させたのです。変化の著しいものとして、「結婚だけが女の幸せではない」「結婚だけが男女の関係ではない」「結婚するのもしないのも個人の自由」「同棲はするが結婚はしない」「結婚しても別居する」「ノンセックス夫婦」「夫婦別姓を望み婚姻届を提出しない」等々が挙げられます。このように様々な結婚の形態が認められているのも法の下では個人が尊重されることになっているからであり他人に強制されることはありません。

個人主義とは、個人を出発点及び目標とし社会や集団の利益に優先して個人に重要な意義を認める考えをいいます。憲法13条でいう個人の尊重は公共の福祉に反しない限り立法その他国政の上で最大の尊重をされるとあります。しかしながら公共の福祉に反しなければ何事も自由勝手であるとは言えません。個人の集合体が集団であり集団に対して個人が存在しますから個人の尊重は先ず人間社会や集団の健全な発展に腐心する事から始めなければなりません。個人が尊重されるには社会や集団という基盤が必要です。個人の尊重をはき違えることは個人の基盤を危うくし自身そのものまでも消滅の危機に晒すことに繋がります。「個人は何から誰から尊重されるのか」を考えなければなりません。

時代の必要に応じて変わる法には抵触しなくとも人も地球上でひとつの個として考える時、生態系を無視し人間のみの都合で求める人間のみの幸福は必ず人間を壊滅状態に導きます。か弱い人間は理性を最大の武器として漸く今日まで進化発展を為し得てきました。理性を有する事は人間が人間たる確証ともいえます。理性なくして社会ル−ルも憲法も存在しません。理性とはすじ道を立てて考え本能・感情・欲望を抑え正しく判断する先天的性質です。いわば自然が人間のみに与えた能力であり自然摂理の入門書です。結婚観も移ろいやすい人間社会の時流に翻弄されず人類・地球規模から出発するところに一段とその輝きを増し、ひいては個人の尊重が最大限に生かされた素晴らしい結婚が約束されると思います。 #Back to Top


 
夫婦の愛は焚き火−−−夫婦の愛など頭から信じてはなりません。愛とは本能的で感情的なものです。信じると言う事は理性的なものです。故に一時的な欲求感情を永遠に信じる事は愚かなことと言わざるを得ません。これを永久のものと誤解しますと思わぬ事態が生じた時、その対処法を求めて躊躇せねばなりません。多くの場合何の努力もなしに最初の愛が続くものと自分勝手に信じる自己愛もこれが裏切られたと察するや怒り心頭に発し壊滅状態に陥る事になります。しかしご心配には及びません。ご安心下さい。夫婦間の永久の愛はありませんが夫婦の愛を永続させる方法はあります。

夫婦の愛は焚き火の炎に似ています。燃えている焚き火は何時かは必ず消えます。薪が燃え尽きるからです。それでなくとも雨も降れば風邪も吹きます。焚き火は何時でも消える状態に晒されており消えない中に薪を補充し燃え続けるように気配りをする必要があります。完全に燃え尽きたならば再び火を熾すのに手間取り一生再着火もかなわない事さえあります。

凡そ物の燃焼に必要な条件は燃える物、発火点に至る温度、空気(酸素)があります。夫婦の愛も同様に互いに心をときめかす題材と情熱が必要でありこの二つが揃えば自然が空気のように燃焼に参加協力してくれます。これだけで夫婦の愛は永続します。不燃物を投じたり発火点を下回るほどの低温にはご用心下さい。夫婦間での喜べない事や冷たい仕草は夫婦の愛を崩壊に導きます。#Back to Top


 
叱ってくれる人−−−自分を叱ってくれる人は最高の宝物です。「非行少年の成長過程には何らかの理由で母親がいないケ−スが多い。」とはある矯正官のお話です。今や子供の非行原因は殆ど母親にあるというのは常識となっています。しかし母親が悪いのではありません。母親を叱る人が誰もいないのが原因です。

夫は関わり合いを恐れて妻を叱れず、姑も我が身可愛さに嫁を叱れず、又叱りたくとも別居してしまう。さらに学校は母親中心のPTAに睨まれては到底運営できず忠告さえも避けてしまう。誰一人として親であることを忘れた母を諫める人は見あたりません。

個人の尊重を誤解して母親の役割よりも女性という個を優先させる風潮が蔓延しつつあります。マスコミもマ−ケットも女性に気に入られなければ利益が得られないし成り立たちません。これが一段と拍車をかけこの風潮をさらに扇動します。カルチャ−センタ−、スポ−ツジム、エステサロン、海外旅行等々の上得意様は殆ど女性です。

母よりも個により大きな価値観を持つ日常は女性の理性を時として失わせることがあります。仕事が取り持つ縁で不倫は横行、母親が健在にもかかわらず代理ママの大繁盛、母親・妻の立場より一女性としての個に多くの比重配分をかけることから子供を忘れて容易に離婚、週刊誌はおもしろ可笑しく慰謝料の多寡と併せてこれをもてはやす・・・・等々三面記事の話題はいつも満載です。

人間は誰でも自分を叱ってくれる人が居なくなればその成長は止まってしまいます。それ以上に困ることは堕落の一途を辿るようになり恰も周囲から見捨てられた状態で生活しなければならない事です。これは自身にとって非常に悲しく不幸な出来事です。自分自身は常に正しく他より注意を受けることは無いと断言できる人もこの世に一人だけは自分を叱ってくれる人を持つ事は間違いのない人生を歩むに大切な事と思われます。#Back to Top


 
妻を破壊する危険な環境−−−家庭の基盤は妻という立場の人間に負うところが非常に大きいものです。夫をはじめ家族全員が自身の生活基盤を疎かにして健全な生活を望む事はできません。自分の生活の土台である妻(母)に心から感謝しましょう。そして家族から感謝される妻(母)になりましょう。妻(母)の立場にある人は時々精神面での自身の疲労度をチェックして下さい。そしてさらに重要なことは周囲が常に妻の健康状態に注意を払い、ストレスが蓄積しないよう家族全員でこれの解消に協力することです。

夫婦の心の間隙に割り込む「怪しげな宗教」「洗脳される危険極まりない諸説」に翻弄されたり夫婦のすきまを埋めようとして陥った不倫等により壊滅の道を辿った夫婦には共通点があります。これは統計上大きな割合を占める事項としてご参考にして戴きたいと思います。そして気づいた時には既に遅く重症である場合が多い事も申し添えておきます。くれぐれも御用心下さい。(世の夫たる者/ご用心・ご用心)

「夫が仕事熱心で真面目、何時も帰宅が遅い」−「夫は家事を全て妻に任せ相談にのらない」−「夫婦間の会話が乏しく日頃の悩みイライラが発散できずストレスが蓄積している」−「育児に夫が関与しない」−「夫から妻への愛情表現が乏しい」−「帰宅した夫は疲れていて聞いて欲しいことや相談したい事があっても言い出しにくい」−「愚痴を聞いてくれる人が誰もいない」−「母親(実母・義母)が口やかましく母親に対してコンプレックスがある」−「精神的に自立しないままに結婚をした」−「妻・子の母親・嫁として良くありたいと思うが意に反して思うようにならず不安である」。#Back to Top


 
嘘も方便−−−常識となってはいますが再度確認してみたいと思います。方便とは手段方法という意味を持ち、真理に導く手引きアプロ−チといえます。事実と事実を言う事とは全く別の事です。複雑な人間関係の坩堝である社会で本音を吐いたら誰でも平穏な日々を送ることはできません。嘘は他人の心を傷つけない一種の美徳とでも申せましょう。国際社会においても本音を吐いたら戦争に発展する危険性もあり、嘘は人間社会の平和にも貢献しています。

しかし例外として、必要のない嘘、病的虚言症、わざと人を傷つける嘘、保身の為に人を陥れる嘘、中傷讒言は方便ではありません。方便を誤解してはいけません。嘘は人間社会の平和に貢献するよう上手につきましょう。#Back to Top


 
人生アキラメが肝心−−−人生においてあきらめる事は難しいことです。「諦め切れぬとあきらめた」という言葉がありますからこれは大変な事です。あきらめるという事は人生思わぬ障害や不幸に遭遇したときに虚無的になることだけではありません。「あきらめ方」が問題なのです。いわば上手なあきらめ方をしてこれを活用することが肝心です。

あきらめる事は「思い切る」事に繋がります。思い切る事は物事への執着心を拭い去る事でもあります。苦しい時や辛い事から容易に脱却できない理由に自分の利益・都合を捨てきれない事が挙げられます。結局自身の「ご都合」が重石になって深水に溺れてしまいます。助かる方法はこの重石を先ず捨て去ること以外にありません。

あきらめるとは現状をありのまま受け入れ素裸の自分に戻る事と受け取りたいものです。あきらめるとは徹底して思い切る事であり、徹底とは底に徹する即ち原点に戻る事を意味します。困難からの脱出には出発点に還ることが重要であり新しい物もここから芽生えます。上手にあきらめましょう。人生困った時はアキラメが肝腎です。#Back to Top


 
ゆとりのある人生−−−人は誰でもゆとりのある生活を求めて努力の毎日を送りますが、例え金銭・物品的にはこれが叶えられても心のゆとりは付随し難いものです。「物を得て心を失う」ごとく一般的に「物と心」の関係は反比例する傾向が多く見られ「ゆとり」ある生活を願いながらも「ゆとりの無い人生」を歩み気づかずにいるのかも知れません。

人は現在与えられている多くの「あるもの」を忘れ、僅かな「ないもの」に心を奪われ「ないもの」を求めて奔走しやすいものです。無い物に執着する生活に心のゆとりは生まれません。人間の欲望には際限が無く常に充分満杯を求める生活態度は自らゆとりを無くする事になるからです。ゆとりとは容器と中身の差とも表すことができます。食事の摂取量も衣服のサイズもゆとりが必要です。いずれも身動きがとれず充分に活動できないからです。

心のゆとりは現在与えられている「あるもの」を認識し「あること」を喜ぶ生活態度から生まれます。これが「ゆとりある人生の基本」となります。常に生活の向上を願い努力は必要ですが心は「今あるもの」に置くことが大切です。人生のゆとりとは求める物ではなく自ら作り出すものといえます。

物心共にゆとりを生み出す方法があります。常に十五夜を目指して努力し十三夜で満足する生活態度は如何でしょうか。満月は明日から新月に向かって欠ける方向に進み十三夜は限りなく満月に近づく姿であり何時までも欠けることはありません。この差がゆとりになります。人生は変化と共にあります。満月は瞬時のもので永く続くことはあり得ません。 #Back to Top


 
子供は作らない方がよい−−−子育ての自信は無くとも子の親として充分な責任感が出来るまでは子供を安易に作ってはいけません。厳密にいうと生まれてくる子供に対して父親は良き母親を、母親は良き父親をそれぞれ贈り物とする心構えができて初めて子供の親となる資格が与えられるということです。これなくして子供を作ることは出生の自由意志も親を選ぶ事も出来ない子供にとって至極迷惑な話です。

「子は夫婦の鎹(かすがい)」と言われてきた言葉も今は死語になりつつあります。98年統計/子供のある夫婦の離婚によれば、離婚に際し子供は鎹になりうるか否かに付いて父親50%母親70%がならないと回答しています。夫婦は離婚して人生のやり直しもできますが子供は産まれ直す事などできません。これは不公平というものです。夫婦が離婚して不幸になろうがならまいがこれは当事者の選択であり他に憚る事は何もありません。しかし子供を巻き添えにしてはなりません。子供の人生を大きく狂わせる原因にもなるからです。

離婚だけを考えるならば当事者のみの問題かもしれませんが子供の親としての立場から判断すれば夫婦間で処理することは不可能です。不可能を充分承知の上で事を運ぼうとするからには相当の覚悟と子に対する責任の取り方を考えねばなりません。子に対してだけではありません。子供の非行原因の一端に夫婦の離婚が関与するとすれば社会に対しても責任を取らねばなりません。

一般的には法に基づき適切な策がとられていますがこれで充分と言うことではありません。他に方法がないからです。子供は被害者であるならば親は加害者とも言えます。法は被害者の為よりも加害者の為の色合いの方が強いという一面を持っています。言い換えれば子供に対して取ることの出来る親の責任には限度があり離婚による子供心の渇きを潤すには充分ではないということです。

止むなき事情による離婚でありかつ子供の為にも現状の家族構成を存続する事はマイナスと判断した場合でも結果として子供を巻き込む事には間違いありません。出来ないことではありませんが親の責任を痛感し子供の育成に腐心する事は容易なことではありません。夫にとって悪い妻も妻にとって悪い夫も子供から見れば悪い父母であるとは限りません。良くも悪くもこの世に親は他にいないのですから。

離婚を全て否定するものではありません。子供の親になり、親であり続ける事の重大さを受け止めて戴きたいと願うものです。子育ての自信は無くとも子の親として充分な責任感が出来るまでは子供を安易に作ってはいけません。これなくして子供を作ることは出生の自由意志も親を選ぶ事も出来ない子供にとって至極迷惑な話しです。#Back to Top


 
人間関係の陥穽(落とし穴)−−−人間関係に悩む人はその原因が理解できず非常に苦しみます。これの大きな原因は自己中心的で相手の事を考えずに自分の思い通りに事をなし自分はこれで良し、立派だと思うことです。この思い込みがありますと努力をして真面目に頑張ってみても何故か思うように運ばず周囲の人とギクシャクして幸せになれません。最後は腹を立て人を恨むようになり人間不信に陥ります。

第一の原因は相手との位置関係が理解できていないからです。人間同士親しくなるのは良いことですが昨日出会った人も長く付き合った人も年少も年長も同じような態度で接する事は相手を嫌な気分にさせます。相手との関係を充分把握し、それによって言葉と態度を変えていく事が大切です。これが出来ませんと自分は気分良くお付き合いしているつもりでも相手は非常に不愉快になり貴方を快く思いません。たとえばこれに気づかずに物事を依頼しますと殆ど相手から拒絶されます。その結果貴方の心は傷ついてしまうのです。

第二は動機が問題です。常に人の行動には動機があります。「自分はなぜこのようにしているのか」「相手はなぜこうするのか」を把握していなければなりません。目に見える行動と動機は必ずしも一致しないのです。他人に親切にする場合、目に見える行動は同様ですが動機は人によって異なります。「かわいそうだから」「人に褒められたい」「不親切と思われたくない」「悪評が恐い」「断れないから」「売名行為」等々様々です。このように同じ行動をしていても各自の動機は違うのです。

仮に貴方が相手のためを思い何かをして上げても、相手の思いを汲まずに為すならば相手は感謝するよりも怒りを感じるものです。しかも自己中心な貴方はこれで良しと考え当然相手から良い反応があるものと思いこみます。しかし相手の思わぬ反応に貴方は驚き相手を誹謗するようになります。此処に人間関係の破綻が生じるのです。目に見える行動のみに心を奪われず、見えない心の働き・動機をみつめてください。相手との位置関係、相手の動機の見誤りは人間不信の陥穽に落ちます。#Back to Top


 
生き甲斐と死に甲斐−−−人生、生き甲斐が無ければ充実出来ない事は誰しも考えることです。生き甲斐とは人間が生活していく中で自身の存在感を認識できる精神的なものとでも言えます。自身の存在を見つける方法は各人各様ですから対象とするものは当然異なります。言い換えればどんな物にでも生き甲斐を感じる事はできますし他人の評価を特に気に懸ける必要もありません。いわば個人の生き甲斐は自身の努力次第で何処にでもあり容易に見つけられやすいものです。「生き甲斐がない」と考えるのは自分の努力に対して相当する結果や相応しい評価が得られず生きる目的を見失った時に感じやすく自身を喪失する場合もあります。

人生をもっと積極的に生き抜く為には非常に脆い一面を有する生き甲斐よりも「死に甲斐」を求めては如何でしょうか。死に甲斐とはこの人の為ならば、この目的の為ならば自分の命を賭ける事ができるというものです。自分自身の全てを投じることが出来るもの即ち「死に甲斐」があるものを見つける事が自分の存在感をより充満させてくれると思います。結果に左右されやすい「生き甲斐」よりも何物にも動じることのない「死に甲斐」を持つことがこの世に生を受けた人間として持つべき生き甲斐なのです。#Back to Top


 
好きが仇(かたき)−−−人生の大先輩から非常に含蓄のある言葉を拝聴しました。「世の中に酒と女は仇なり、はやく仇に巡り会いたい」。人は誰でも好きな物や得意とするものに対して理性を働かせるのは苦手なようです。酒・男・女・ギャンブルがその代表と言えます。好きなればこそ没頭し自制心を失いやすいのは人間が人間である証明かも知れません。過去の歴史を振り返った時、苦手とする事で人生を没落させた人物はあまり見あたりませんが得意とする事で人生の全てを失った人物は枚挙に遑ありません。策士策に溺れ、知者知に溺れると言うことでしょうか。

「好き」な人、物、事は自身を成長も崩壊もさせる両刃の剣と心得る事が必要です。「好き」は心の「隙(すき)」と受け取り自分自身の心に忍び寄る悪魔の入り口・すきまにならぬよう注意に注意を重ねなければなりません。好きは敵にもなり得ることを戒めとすれば好きな物は好きな物として末永くお付き合いができます。好きな物が悪いのではありません。好きな物に自制心を失わせる自己中心の心が悪いのです。好きな物・得意な事にはくれぐれもご用心下さい。#Back to Top


 
たかが結婚されど結婚−−−恋愛結婚など取るに足らないバカげた事だと思うときもあります。たかが馬と虫の問題ではありませんか。「ウマが合う、合わない」「ムシが好く、好かない」だけの事です。最近の統計によりますと約900組/時間の結婚と約200組/時間の離婚が繰り返されているとの事です。ウマやムシから始まりウマやムシに終わる。なんとバカげた事でしょう。 離婚原因のほとんどが性格の不一致でありこの80%が性生活の不満と言われています。夫婦お互いが自分のみの快楽を求め更に貪ろうとする処に際限なき不満が蓄積しついには破局をむかえるのです。当然と言えば当然の事ですがあまりにもバカげています。

このバカげた行為の為に結婚式を挙げる事はもっとバカげた事と言わざるを得ません。常日頃無神論者を語る若者が何様とも知れぬ神様の前でアルバイト紛いの装束を着けただけかも知れない神官(そうでない立派な神官もお見えになりますが)の介護で神妙に誓いを述べる。大安吉日はベルコンによる流れ作業のようにも思われる。大勢の人を集め今まで着たこともない羽織袴を着け、打ち掛け飾りも到底似つかない格好で披露宴に望む姿は哀れでならない。結婚関連産業の発展に寄与する事は間違いなかろうが。ある人が囁いた。「これで看板を架けていたら昔のチンドンヤさんだよね」と。戦いすんで日は暮れて、後に残るのは義理・借金と写真集。これで長続きせず「ハイ、サヨウナラ」では悲しすぎる。結婚式は夫婦の幸せと何ら関係ないことを知らねばならない。#Back to Top


 
不完全なるもの−−−完全な人間を理想とする思想や宗教がブ−ムとなる時がある。世間を騒然とさせた宗教もこの類にはいる。これらの思想は「この世には完成された人間と未完成の人間の二種類で構成され、完成された人間が未完成の人間の苦悩を取り払い解決できるもの」との錯覚・幻想に他ならない。さらにこの自己完成の願望から厳しい修行を行い他人を惑わし個の完成を手段かまわず追い求める姿は狂気にも似て恐ろしい感がします。

人間の進化と発展は子孫を残し繁栄させることにあります。いわば人間に限らず動物は生殖を第一の目的とすると断言しても差し支えないものと思います。人生の喜怒哀楽はこの上に成り立つものであり無から有を産み出す行為こそ人間生活の基本といえます。このことを前提にして人間を考えてみますと、男も女も生殖行為に必要な器官は互いに相手に借りなければならず単独での行為は不可能です。片方のみでも性欲は満たされるかも知れませんが生殖は叶いません。

生きるために両性にとって一番大切な物は互いに相手が所有する事を理解する必要があります。このことから人間が個の完成を願いこれに執着することは非常に愚かな事であり錯覚以外のなにものでもありません。人間には本来個の完成はなく相手方の性を得て一人前になれるのです。完成された一個の人間を願うよりも両性が互いに協力して完成された人間になることを知ることこそ完成された人間への最短距離なのです。#Back to Top


 
悲しきリ−ダ−−−−世の中には何事によらすリ−ドする人とされる人がいて先頭に立つ人の方が一段うえの存在であると思いこみ、リ−ダ−と称される人は大声で世の中をリ−ド、引率しているものと周囲も本人も考えている場合が多く見受けられます。周囲の判断はいざ知らずリ−ダ−と称される人がエリ−ト意識のままにこの状態にありますと大きな誤りを犯してしまいます。これは大きな錯覚であり本人自身が気づかないだけの事です。船舶や航空機に例えればリ−ダ−は舳先・機首であり方向を決定するのは後尾の舵・尾翼(方向舵)なのです。そして進む動力は別の所にあります。この事実を知らず何事もリ−ダ−の思いのままに事が進むと勘違いをする処に大きな陥穽があります。家庭しかり、会社しかり、長と名の付く立場の人は充分気を付けねばなりません。#Back to Top

 
精神的な下痢−−−消化器等の不調が原因でおきる下痢は不快そのものです。この症状が精神面で起こりますと対人関係は最悪なものになります。人には長所と短所があります。長所とは他人から誉められる性格を短所とは他人から疎まれる性格を一般的に言い表します。気のおけない仲間ばかりの社会ではありませんから仕事となれば嫌悪感を催す人間とでもお付き合いしなくてはなりません。人間関係は他人の短所を気にかけることなく長所をみてお付き合いをすることが大切であり、このお付き合いの如何が自分自身の存亡に大きく関わってきます。

他人との付き合いは他人の家の訪問とよく似ています。他家を訪れたときに綺麗な玄関、お客間、応接間等をみて素晴らしいと感ずればその印象はその家の印象となります。しかしトイレの無い家はありません。どのような素晴らしい家にも必ずトイレはあり、それなりの悪臭は付き物です。訪問して最初にトイレに案内される事はまずありませんしまた、トイレをみて家の全てを印象づけることもありません。これを人に例えれば客間、応接間は長所でありトイレは短所といえます。

人間関係で長所をみてのお付き合いは客間で楽しい話をすることになり、短所を気にかけてのお付き合いはトイレで不快な話し合いの姿です。他人の欠点短所を見つける姿勢は他家の訪問時にトイレを求めるようなもので自身が下痢状態である姿です。何時も下痢状態で行く先々で先ずトイレを借りる姿は借りる人も貸す人も不愉快この上もありません。このように他人の欠点に気がつきやすい人は精神的な下痢症状であり、この状態での人間関係は自他ともに楽しいはずはありません。慢性的な下痢は友を作れず孤独になります。人間の短所と家のトイレは必ずあります。そしてその両方とも誰にでもあり他人の目に晒されるものではありませんし使う場所と時を選べばなくてはならないものです。トイレは生命維持に不可欠なものとして存在し、短所は長所に不可欠なものとして存在し共存するものなのです。#Back to Top


 
家庭教育の陥穽−−−子供のほしがる物を与え望む事を叶え嫌がる事はさせずに「私は子供に何不自由させることなく育てました」と自慢する親がいます。これほど危険な家庭教育はありません。社会人になった時、なに不自由なく育った子供ほど不自由な生活環境を自ら作り出します。仕事でも人間関係でも順調な時にはその人間性はあまり問題になりません。しかし失敗した時やトラブルが生じた時にどのように対処し解決していくかでその人間性が試されます。そしてその対応姿勢が人生の方向を決定付けることが多いものです。何事も自分の思い通りになる環境で成長した子供は困難に直面した時、逆境を知らないが故に適切な対処ができず自ら崩壊してしまいます。

植物に例えてみますと、常に外から水をやる木の根は地下深く伸びません。これは外から水をやると自ら努力しないで水を取る癖がついてしまうからです。これと反対に常時水を与えない木の根は水分を求めて地中深く根を伸ばし丈夫になります。予期せぬ干ばつを乗り越えられる木の育て方は瞭然です。これと同様に子供には如何なる時も対応できるような力をつけてやる事が肝要です。家庭教育は子供の成長に応じて何時どのくらい水や肥を与えるか大切であり、決して子供の望むままに事を為すものではありません。この見極めのできる人を親と称します。何不自由なく子供を育てることこそ親の愛情であると錯覚してしまいますとこれに比例して子供自身を枯らすことになります。#Back to Top


 
ものを育てる極意−−−ある農家の人に聞いたことがあります。「農作物をつくるにはおよそ三通りに大別されそれぞれランク付けをすることができる。例えば、初心者は米の収穫のみに心を奪われるが中級者は良い稲を育てる事に専念する。そして上級者は良い土を作ることに腐心する」・・・名言であろうと思います。人間は自然界に存在する物を創り出す事は出来ず出来る事と言えば育ちやすい環境を作り出すこと以外にはありません。収穫量の増加は農業の目する処ですが量のみに心を奪われますと安全も確認されないままにバイオ・テクの信奉者となりその付け回しは危険を伴って人間に返ってくることは容易に予測できます。日本の土壌はバクテリアが死滅の傾向にあり死に瀕していると言われています。良い物を多く収穫するには農業上級者の語る肥沃な土壌をつくる事が大前提であろうと思います。土は全てを産み出してくれる自然界の母体そのものです。そして土は最後も受け入れてくれます。

卵(有精卵)の食し方には二通りがあります。一つは欲するままに調理してすぐさま食べる方法です。いま一つは、卵を孵し成鳥まで育て上げ産卵するように成ったとき毎日好みのままに調理して食べる方法です。前者は直ぐに食欲を満たしてくれますが一時的なもので後々の楽しみはなく食直後より次の卵を求めなくてはなりません。後者は直ぐに空腹を満たす事は適いませんが後の楽しみは多く長期にわたって食べられます。しかし育てる苦労は付きものです。それぞれ一長一短ですが物を育てる行為は多くの物を連続して産み出す事に繋がります。

人間も例外ではありません。全てを産み出し最後を託す土は人間社会に例えれば家庭・夫婦の姿と言えます。子育ては卵の扱いに通ずるものがあります。素晴らしい子供に育てるには子供をバイオ・テクのように弄ること無く成長に必要な多くのものを吸収する家庭環境のあり方に腐心することが第一の秘訣・極意と考えます。#Back to Top


 
有りそうで無いもの?−−−先人曰く「何時までも有ると思うな親と金」「何時までも無いと思うな運と災難」・・・人生の妙を言い得て重みのある言葉です。何時までもとは長い人生の戒めとして受け取れますが、今ある自分自身について有りそうで無いものや少ないものを認識する事も長い人生において意義有ることです。人は通常自身を過大評価しやすいものでこれが原因となって苦境に陥る結果を招く事がしばしば見受けられます。

有りそうで無いものや少ないものには、教養・知識・分別・遠慮・人情・根性。反対に無さそうで有るものは、プライド・自己中・欲望があります。これらは殆どの人に共通するもので自身の反省と今後の心の治め方身の処し方の参考になります。有るものは有る、無いものは無いと自己分析の結果を謙虚に受けとめる姿勢は先々の心配をすることよりも長い人生を歩む中では最も大切な事の一つです。#Back to Top


 
夫婦の値打ちは積にあり−−−(積とはかけ算の答です)夫婦は二人で一つです。一組の夫婦を数字で表してみると面白いことに気付きます。一組の夫婦を10としてそれぞれの領分を考えてみますと夫と妻の和は常に10ですがこの配分は夫婦によって異なります。夫が0で妻が10の場合やこの反対はまず無いと思いますが夫が1で妻が9、夫が2で妻が8・・・・とその配分は3と7、4と6、5と5のように5通り考えられます。世情の一般常識らしきものから判断しますと[夫>妻]の場合は亭主関白と称され[夫<妻]の場合は嬶天下と良くも悪くも言われるようです。[夫=妻]の場合もありましょうがこれらの判定は外部の人間が断を下すモノだけに定かではありません。この割合を知り得ているのは当事者のみと言えます。

ところで、夫婦とは人間社会において全てを産み出す最小単位ですから何時も夫婦合わせて10ということでは新しいものは生まれてきません。足して10の夫婦も子供ができますと間違いなく10以上のものになります。人間は生き物ですからモノを産み出すには交配(生殖)が必要です。交配とは雌雄かけ合わせる事です。顰蹙モノですがこれを夫婦間におけるそれぞれの配分と生まれてくる子供の持ち分との関係を考えてみると面白いことに気付きます。簡単明瞭に言うならば夫婦のかけ合わせ方が生まれてくる子供にどの様な影響を及ぼすかと言うことです。

[夫の配分] x [妻の配分] − [夫婦の和(10)] = [子供の持ち分(子供が所持する無形の財産)] ・・・・・・・ この数式に夫婦の配分を代入してみますと

[ 1 ] x [ 9 ] − [ 10 ] = [ −1 ]
[ 2 ] x [ 8 ] − [ 10 ] = [  6 ]
[ 3 ] x [ 7 ] − [ 10 ] = [ 11 ]
[ 4 ] x [ 6 ] − [ 10 ] = [ 14 ]
[  ] x [  ] − [ 10 ] = [ 15 ]  となります。

このように子供が産まれながらにして所持する無形の財産はその両親の持つ配分に大きく関わりがありそうです。夫婦のお付き合いは五分と五分とが最大値となります。男尊女卑・女尊男卑は止めましょう。夫婦は対等の関係を維持することに最大の効果が得られるのです。妻に暴力を振るうような夫や夫を蔑ろにして省みないような妻の配分は当然0です。0は全てを無に帰す事もできる不思議な数字です。0は相手の価値さえも無にします。相手を無にするような夫・妻はその値打ちさえもありません。摩訶不思議な組み合わせの一つが夫婦なのです。#Back to Top


 
こんなはずじゃなかった−−−当初の予測が外れた時、つい口に出る言葉に「こんなはずじゃなかった」があります。それも良くない結果に陥った場合でありもしもそうでなければこの言葉は出ません。人はこの言葉を口に出す時、自己責任を転嫁しやすく当てが外れた原因を他に求める傾向があります。その結果他人を恨み社会を呪い自身の不運を嘆き被害者意識を持つことによって慰めたり更に極め付きは逃避から自暴自棄に陥り思わぬ行動を起こすこともまま見受けられます。ところで「こんなはず」ではない当初の「はず」とは一体何だったのでしょうか。何事も自分の思い通りに都合良く運ぶとでも思っていたのでしょうか。また「どのようなはず」も努力次第で叶えられると考えていたのでしょうか。

何事によらず努力は大切です。努力は夢を実現させます。「はず」を実現する為にはそれなりの方向と努力はあったのでしょうが「・・・じゃなかった」が結果とすれば努力する過程において何らかの判断ミスがあったものと考えられます。岐路にあたって自身の進むべき方向の誤りに気づかないままに力を加えた行為(努力)が結果を導いたと言うことです。「努力をした甲斐がない」のではなく「努力する方向」に問題があったのです。方向を誤れば努力すればするほど当初の「はず」から遠ざかります。

「はず(筈)」とは予定を表したり確信を表す語として使われますがこの場合は自分の思惑や希望的観測の意味合いが主流であり換言すれば「自分にとって一番都合の良い結果」を願望する心の働きともいえます。何故ならば当初最悪の結果が予測されていても次第に好転し思わぬ好結果に終わったならば「こんな筈じゃなかった・・」と不平は誰も言いません。努力に相応しい結果が得られない第一の原因は「はず」のあり方、求めんとする対象の設定にあるのです。「はず」が正しく設定されていなければ「努力する方向」も定まりません。

「はず」は自分の思惑を叶える算段に繋がりますから当然のように自身の願望を第一としますがこの「我が身第一」の考えに陥穽が潜在しているのです。「自分に一番都合が良く物事が運ぶ」ことに専心し希求するあまり周囲が見えなくなってしまう危険性があります。自分自身を判断するとき、自身の存在のみを考えて自分を取り巻く人や物そしてその心の働きに気付かないことが予測と判断を誤らせるのです。陥穽を避け努力に比例して実現するような「はず」「思惑」とは何かを考えてみたいと思います。

およそ人の幸福は他人の幸せに寄与する事により得られるものです。分かり易く仕事に例えてみれば、農業に携わる人は他人の為の食料を生産しますし理髪業も自身の調髪はできず医師も自身の診察治療は適いません。如何なる職業も先ずは他人の為に働きその結果報酬として自分自身の生計がたてられるのですから「他人の幸福の為に働く事は一般に賞賛される善行美談やボランティアの類ではなく人が人として生きるための基本姿勢であり人間社会の原理原則」なのです。従って如何なる「はず」「思惑」もこの基本理念から逸脱しないことが重要です。

「こんな筈じゃなかった」と述懐するまえに自分自身の幸福のみを追求することなく先ずは自分と関わり合いのある人の幸せを含めた「はず」「思惑」をたてることから始めてはいかがでしょう。身近な所で言うならば夫婦にあっては配偶者の、家庭にあっては自分を含めた家族の幸せを、又大きく企業にあっては社員全員の幸福はもとより社会に寄与する事を視野に入れて物事を考える事が「はず」「思惑」を実現させる最短距離を選択させます。この事を念頭に置いて「筈」をたてるならば例え当初の思惑通りに事が進まなくとも心配は入りません。「はず」は努力に応じ如何様にも形を代えて必ず好結果を導きます。

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目先の利益を追求するあまり周囲の状況動向を疎かにした思惑行為は「起こりうる事態を予測せず注意を怠った」と関係者から過失責任を問われ「身から出た錆」と一笑されかねません。そこで「こんな筈じゃなかった」と後悔した歴史上の人物をご紹介します。ご参考までに以下

徳川幕府に仕えた知る人ぞしる天下のご意見番、大久保彦左衛門の述懐です。彼が晩年に記した「三河物語」からその心情が伺い知れます。幕府を構成する大名の多くは信長が勢力を持てばこれになびき、秀吉が天下を取れば取り入り今又徳川が天下人になればこれに仕える世渡り上手な外様が名を連ねている。かっては敵であった者が幅を利かし、大久保家と言えば先祖代々徳川に六代にわたって仕えてきたのに二千石しか貰っていない。命がけで徳川を護り働いてきた旗本が外様大名に道までも譲らなくてはならない現状に「こんな理不尽はない、こんなはずじゃなかった」と栃の実ほどの涙をこぼしています。戦国時代と言う特殊な状況下を生き抜いてきた猛者の「はず」とは何であったのか又何故「じゃなかった」と言わせる結果になったのかを考えてみるのもムダではないように思います。

時は流れて明治維新、西郷隆盛さんと国学者のみなさんです。維新が成功して気が付いてみたら武士が何処にもいないと初めて分かった尊皇思想者を自認したおさむらいさん。王政復古になれば国学が重用されると思いきや西洋学問一辺倒になってお払い箱になってしまった学者さん。「こんなはずじゃなかった」と言い寄る武士に西南戦争にかり出された西郷さんは今も「こんなはずじゃ・・・・・」と呟いているかも知れません。#Back to Top


 
子供は天使か−−−産まれたばかりの子供の笑顔は非常に可愛いものです。無邪気と言うくらいですから悪意など微塵もないように思いますがこれは大人の一方的な見方と言えます。子供は無邪気で可愛いとの思い込みが結果的に子供を悪魔のように育ててしまう事に繋がります。小さくて可愛い子供の仕草に心を捕らわれ見落とし勝ちになりますが非常に残酷な一面も持ち合わせているのです。「子供は生まれながらに良い子ばかり」と言う誤った考え方で子育てをしますと成長するに及んでは予期しない事件を引き起こす事にもなりかねません。その結果、なぜ、どうしてとその原因を探し求め更生の方法さえも見失ってしまいます。

この原因は家庭も学校も「子供は良い子」という思い込みから事の善悪、理非曲直を教えずにうわべだけのプライバシ−や取り違えた人権に惑わされて事なかれ主義や問題の先送りに終始してきた事にあります。子供は天使にも悪魔にもなる要素をもって生まれてきます。子育てとは子供に潜在する天使のような心を引きだし人格を形成する事にあり、この為には人としての理非曲直や善悪は身を以て教え込むことが不可欠で安易な妥協や優しさとの混同はこれを阻害する大きな原因となります。一般的に過保護といわれる行為がこれに相当しますがこれこそ子供の未来を奪う行為そのものと言えます。取り分け過保護の問題点は「子供は他人の区別無く全て可愛い」のではなく「我が子のみが可愛い」という自己中心的な行動に結びつくものですから親の姿は子供に「自分さえ良ければ」の価値観を植え付けてしまうことです。この自己中心こそが子供の人格形成を阻害する元凶となります。

病める現代社会の原因は規範を忘れた処にあり、親殺し・子殺しが頻発するのも何ら不思議ではありません。事の善悪は元より親子、師弟、年長差等々の区別を厳しく教えられることもなく自己中心的な言動を咎められることもない環境で育てられた子供が成長して親を殺め、親となって我が子をも死に至らしめるようになるのです。子供は育つ環境によって大きく変わると言われますが正しくは子供に潜在する天使や悪魔のような心が子供を取り巻く人や物によってその影響を受けた部分のみが強調して引き出されるだけなのです。さらに正邪双方の心が成長と共に広がりつつある子供に対しての放任主義は問題の先送り同様で何時かはツケを払わねばなりません。

子供も大人も人間としての本質に何ら変わりはありません。「子供だから、理解できない年齢だから」と大人の勝手な言い訳と「子供は良い子ばかり」との思い込みから必要な躾けを後回しにし手に負えないようになってから慌てふためく様は泥縄そのものでしょう。「子供は良い子ばかり」との錯覚は「社会の大人は良い人ばかり」というような現実離れした思い込みなのです。良い大人もそうでない大人も人の親であり、是非はともかく自分の価値観で子供をそれなりに育てているのですから。理想は理想で追い求めることが大切ですが同時に避けられない現実と対峙することも忘れてはなりません。親が身を以て事の善悪・理非曲直を教える以上の躾けはありません。#Back to Top


 
大人と子供の違い−−年齢の差で判断するのではありません。馬齢を重ね無為徒食の日々を送っていては何時までも大人にはなれません。この頃成人式でバカ騒ぎを繰り返し顰蹙をかっている新成人を見るにつけこの思いは更に深まります。日常生活の中で精神的な成長が遂げられないからです。その主な理由に物事に対する受け取り方が如何にも幼稚過ぎる事が挙げられます。言い換えますと我慢辛抱がなく何事も自分の欲するままに都合の良いように自分に合わせるよう他に求め叶えられなければキレてしまう。そしてこれが青春と思い誤ってしまう事ともいえます。言い訳は尤もらしく聞こえることもありますが要は常に楽な道を選ぼうとする心があるからです。何事も思い通りにすることが自由と思い込み真の自由の素晴らしさを知らないのが原因です。自由とは規範の中に存在するものなのです。

甘味は塩味によって一層引き立てられます。子供は辛いものや苦いものを嫌い甘いものばかりを好みます。しかし成長するに及んではお刺身には山葵をおでんには芥子を付けるようになります。自分にとって都合の良い甘い事ばかりを欲しがっている中は年齢に関係なく子供の域を出る事はありません。辛いものや苦いものがより美味しさを引き出す要素であることが解れば大人入りができます。自分にとって苦しい事や辛い事があっても一時的な楽に流れず自らが好んでそれに突き進む道を選べるようになり、甘味に勝る美味を求めようとする姿勢が大人の資格を得る条件でもあります。苦味や辛味の奥深さを知るようになれば一人前の大人と言えましょう。#Back to Top