こんなはずじゃなかった−−−当初の予測が外れた時、つい口に出る言葉に「こんなはずじゃなかった」があります。それも良くない結果に陥った場合でありもしもそうでなければこの言葉は出ません。人はこの言葉を口に出す時、自己責任を転嫁しやすく当てが外れた原因を他に求める傾向があります。その結果他人を恨み社会を呪い自身の不運を嘆き被害者意識を持つことによって慰めたり更に極め付きは逃避から自暴自棄に陥り思わぬ行動を起こすこともまま見受けられます。ところで「こんなはず」ではない当初の「はず」とは一体何だったのでしょうか。何事も自分の思い通りに都合良く運ぶとでも思っていたのでしょうか。また「どのようなはず」も努力次第で叶えられると考えていたのでしょうか。
何事によらず努力は大切です。努力は夢を実現させます。「はず」を実現する為にはそれなりの方向と努力はあったのでしょうが「・・・じゃなかった」が結果とすれば努力する過程において何らかの判断ミスがあったものと考えられます。岐路にあたって自身の進むべき方向の誤りに気づかないままに力を加えた行為(努力)が結果を導いたと言うことです。「努力をした甲斐がない」のではなく「努力する方向」に問題があったのです。方向を誤れば努力すればするほど当初の「はず」から遠ざかります。
「はず(筈)」とは予定を表したり確信を表す語として使われますがこの場合は自分の思惑や希望的観測の意味合いが主流であり換言すれば「自分にとって一番都合の良い結果」を願望する心の働きともいえます。何故ならば当初最悪の結果が予測されていても次第に好転し思わぬ好結果に終わったならば「こんな筈じゃなかった・・」と不平は誰も言いません。努力に相応しい結果が得られない第一の原因は「はず」のあり方、求めんとする対象の設定にあるのです。「はず」が正しく設定されていなければ「努力する方向」も定まりません。
「はず」は自分の思惑を叶える算段に繋がりますから当然のように自身の願望を第一としますがこの「我が身第一」の考えに陥穽が潜在しているのです。「自分に一番都合が良く物事が運ぶ」ことに専心し希求するあまり周囲が見えなくなってしまう危険性があります。自分自身を判断するとき、自身の存在のみを考えて自分を取り巻く人や物そしてその心の働きに気付かないことが予測と判断を誤らせるのです。陥穽を避け努力に比例して実現するような「はず」「思惑」とは何かを考えてみたいと思います。
およそ人の幸福は他人の幸せに寄与する事により得られるものです。分かり易く仕事に例えてみれば、農業に携わる人は他人の為の食料を生産しますし理髪業も自身の調髪はできず医師も自身の診察治療は適いません。如何なる職業も先ずは他人の為に働きその結果報酬として自分自身の生計がたてられるのですから「他人の幸福の為に働く事は一般に賞賛される善行美談やボランティアの類ではなく人が人として生きるための基本姿勢であり人間社会の原理原則」なのです。従って如何なる「はず」「思惑」もこの基本理念から逸脱しないことが重要です。
「こんな筈じゃなかった」と述懐するまえに自分自身の幸福のみを追求することなく先ずは自分と関わり合いのある人の幸せを含めた「はず」「思惑」をたてることから始めてはいかがでしょう。身近な所で言うならば夫婦にあっては配偶者の、家庭にあっては自分を含めた家族の幸せを、又大きく企業にあっては社員全員の幸福はもとより社会に寄与する事を視野に入れて物事を考える事が「はず」「思惑」を実現させる最短距離を選択させます。この事を念頭に置いて「筈」をたてるならば例え当初の思惑通りに事が進まなくとも心配は入りません。「はず」は努力に応じ如何様にも形を代えて必ず好結果を導きます。
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目先の利益を追求するあまり周囲の状況動向を疎かにした思惑行為は「起こりうる事態を予測せず注意を怠った」と関係者から過失責任を問われ「身から出た錆」と一笑されかねません。そこで「こんな筈じゃなかった」と後悔した歴史上の人物をご紹介します。ご参考までに以下
徳川幕府に仕えた知る人ぞしる天下のご意見番、大久保彦左衛門の述懐です。彼が晩年に記した「三河物語」からその心情が伺い知れます。幕府を構成する大名の多くは信長が勢力を持てばこれになびき、秀吉が天下を取れば取り入り今又徳川が天下人になればこれに仕える世渡り上手な外様が名を連ねている。かっては敵であった者が幅を利かし、大久保家と言えば先祖代々徳川に六代にわたって仕えてきたのに二千石しか貰っていない。命がけで徳川を護り働いてきた旗本が外様大名に道までも譲らなくてはならない現状に「こんな理不尽はない、こんなはずじゃなかった」と栃の実ほどの涙をこぼしています。戦国時代と言う特殊な状況下を生き抜いてきた猛者の「はず」とは何であったのか又何故「じゃなかった」と言わせる結果になったのかを考えてみるのもムダではないように思います。
時は流れて明治維新、西郷隆盛さんと国学者のみなさんです。維新が成功して気が付いてみたら武士が何処にもいないと初めて分かった尊皇思想者を自認したおさむらいさん。王政復古になれば国学が重用されると思いきや西洋学問一辺倒になってお払い箱になってしまった学者さん。「こんなはずじゃなかった」と言い寄る武士に西南戦争にかり出された西郷さんは今も「こんなはずじゃ・・・・・」と呟いているかも知れません。#Back
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