人は何処から来て何を為し何処へ行くのか・・・人はこの世で為すべき自分の目 的を自身で明らかにして生まれて来たのではありません。生まれた事実さえも自身で確認する迄には相当の時間を必要とします。言い換えれば自分の意志でこの 世に生まれて来たのではなく自分の知らない何かの力によって生み出されたとしか表現できません。唯一産んで育てることの出来る母親も生命を宿す事はできま すが生命そのものを創り出すことは不可能です。これは今日の生命科学の粋をもってしても到底為し得る技ではありません。

有為転変、有為無常のこの世ですから心の拠り所として生きる目的意識が 得られるならば人生の大きな活力ともなりますが人の価値観はそれぞれ異なりますからその目的も一様ではありません。更に目的達成の為には手段を選ばず「自 分さえ良ければ、今さえ良ければ」とばかりにこれを追い求め止まることのない生き方は多くの紛争や抗争、複雑な人間関係を生み出し結果として多くの悩みを 抱え込む混沌とした社会を出現させました。

「生きている」を前提にすることから個々に「人生の意義やその目的」を 探し求め価値観の多様性と相まって結果的に多くの苦悩を抱え込んでしまうのです。仮に「生かされている」ことを前提とするならば結論は容易に見出すことが できます。

しかしながら自分の力のみで「生きている」とは言い切れないから「生か されている」との短絡的な考え方は根本的な誤りです。即ち、「生かされている」とは・・・人間は自ら目的を持ってこの世に生まれて来たのではなく目的を与 えられてこの世に生を受けたのであり、人間はその与えられた「目的」の何たるかを知りそれに添うような生き方を意味するのです。

たとえるならば、蒔かれた花の種は時節の到来とともに開花し実を結んで 種子を残し枯れていきます。その残された種は又蒔かれ成長して花が咲き実を結び種を残す・・・これが連綿と繰り返されているのです。今咲いている花が「咲 く目的」を探し求めて悩むのは愚かなことで「咲く目的」は花自身にはなく蒔いた人に存在するのであって目的意識の有無に関わらず種蒔き−開花−結実−枯死 は自然の理そのままに繰り返され「今咲いている花」の力の及ぶところではありません。

花の為すべきは蒔いた人の目的を知り与えられた環境を十分に活かしその 達成に努力する事にあります。その努力如何によっては大輪にもなりましょうし開花の時期を待たずに枯死する場合もありましょう。花は与えられた目的に添っ て成長し蒔かれた人に喜んで貰える姿になることに価値があり、ここに花自身の喜びも存在するのです。「生かされている」とはこのような姿と言えます。

人も草木も生き物すべて自然の理を超えて生きる事はできません。天然自 然の理会いによって生かされ生きているのです。永遠の課題と称される「人は何処から来て何を為し何処へ行くのか」も人生の目的も明確になれば人間自らが徒 に作り出す悩みや苦しみは自然と消滅し、余人に影響されない自分自身の努力とそれに応じた喜びの人生が実現します。

目的を与えこの世に人間を創造した偉大なものの存在を知ろうとて人類の 僅かな歴史と知識で以てこれに挑むのはあたかもピンホ−ルから雄大な景観を眺める仕草に似て非常におろかな行為と言えます。偉大なものの存在を知るには宗 教の領域に入らねば必要にして十分ではありません。人は自然の摂理、天然自然の理を司るこの偉大なものを「神」と言う言葉で表現し神こそがこの世を作り人 間を創造したと考えたのです。

人間創造の方法やその目的 は宗派により異なりますが「神が人間を創造した」ことに異論を唱える宗教はありません。しかし「創造」され自力で今日の進化を成し遂げたと 断言するには無理があります。何故ならば創造されてより今日まで人間は親と子の立場を連綿と繰り返しつつ情報伝達を為し生き続けていると言う事実があるか らです。人間を創造したのみならず今日までに育て上げた親なる神の真意と事実こそが人間の生きる目的を解明する鍵と言えます。

生きる目的の根拠とその実証は「人間は全て陽気で楽しい生活が出来るよ うに工夫して創造され、その目的を具現する為に働くべくこの世に生を受け」その為に生かされ生きていると言うことであり、それは本能的に苦を厭い和楽を求 める生き様と自分の意志で生まれる事もできず又思い通りに治癒できない自身の体からも窺い知れます。人間の全てはここから始まるのです。

運命とは「物事の成り行きや人間の身の上を支配し、人の意志で変えるこ とも予測することもできない神秘的な力」を意味します。人の一生は「親を選ぶことも子を選ぶことも出来ず、更には生まれる環境も状態も選べない」時と所と 人との巡り会いから始まります。これが人間一人一人の運命と言うべきものです。

運命は変えられませんが人 の辿る生涯を言い表す言葉として用いられる「運命」は自分の心一つで如何様にも変えられます。元来一個人の幸不幸や毀誉褒貶、栄枯盛衰等を詮索して一喜一 憂する人の運命・占い等と言うものは人間がこの世に生み出された神意と与えられた大きな使命(天命)に比べれば微々たるものであり、明日の自分を案じる余 り根拠のない占い等々に心の拠り所を求める人々の心の弱さが創り出したものかも知れません。

運命は祈り、呪い、お札、器物等々で容易に変えられると説く宗教の陥穽(落とし穴)は我 が信ずる教のみが正しく他は邪とする考え方や教義の無理強いにあり以て真実を隠蔽するばかりでなく人心を惑わす元凶ともなり人の幸福とは決して結びつく事 はありません。如何なる自説をも唱えるのは自由ですが厳然たる事実は事実として実証されねばなりません。人知人力では絶対変えられないもの、それが運命の 運命たる所以です。