本能である食欲や性欲はもとより、金銭欲、名誉欲、権力欲、名声欲・・・と際限のないこれらの欲は極めて本能に近いものがあり、人間の本質は欲の塊と考えても差し支えなさそうです。革命や戦争、テロ行為等々ご立派な主義主張を振り回してみてもその根底にあるものはやはり欲ですから人類の歴史は欲の歴史との暴言も妙に納得させられます。

人間社会で一番恐ろしいものと言えば人を迷わせ苦しめ何時しか悪行非道に誘い込む欲以外にはありません。人は一旦欲に取り憑かれますと人間らしさを失い欲望を満たす為にはあらゆる手段を駆使して何ら犠牲を惜しまず自らを墓穴に誘います。しかも悪行の限りを尽くしながら神仏には天国や極楽入りを真顔で願うなどこの世のみならずあの世までも欲を引きずる心懸けには感心します。正しくこの世は欲と二人連れ、けだし名言です。

しかし人間欲がなければ向上心もなく進歩も望めませんから欲は必要です。人生の喜怒哀楽も欲から派生したもので無欲な人間など存在しないのです。問題は至当(極めて適当な)であるか否かにあり、多くても少なくても困る匙加減の最も難しいのが欲と言えます。清く正しく美しく生涯を終えたと聞かされる聖人君主等も特別な人間ではなく欲望を自己制御する達人だったと考えると得心もでき自分にもその可能性が見いだせます。

至当な欲は生活の向上に繋がりますがこれが高じて強欲や貪欲に膨張し続けると自分自身をものみ込まれてしまう恐ろしいものであり、その恐ろしさは限界をもたないことにあります。しかし毒と薬の差違はその分量にありますから欲も限度を守れば生きる力となり人の幸せに寄与するは必定です。

人は器ですから入る分量は自ずと定まっています。定量まで満たそうとする欲は至当ですが限度を超えて盛りつけようとする欲が強欲貪欲となり結果として中身がこぼれるか又は器が壊れるかの何れかになります。自分の容量を超えても尚求めようとする欲は身の破滅に繋がりますから自身の分量を知ることが欲と良い関係を保つ秘訣です。

自分の容量は今ある自身の姿から伺い知れます。人は誰でもその器に相応しい環境のもとに生を受け容量一杯の人生を送れるようになっていますから現在与わっている全てが自身の定量と言うことになります。もしも容量以上のものを望むならば器を大きくする以外方法はありません。器を大きくする方法の一つに欲の質を変えることがあげられます。

至当の欲といえど社員と社長の欲は異なります。社員は自分の給料の心配をしますが社長は社員に払う給料を心配します。自分の身につける欲と併せて他人の為の欲にも心を配るようになりますと器も大きくなり社長にもなれます。家庭においても同様です。独り身は独り身に相応しい器、夫婦になって互いに相手を心配するようになればそれなりに、親として家庭を護る立場になればそれ相応の器になり容量も大きくなります。

家庭を護る立場にありながらも私利私欲にはしり分不相応なものを求めたり、自分の事のみを考えて自由奔放な暮らしができるような独り身にありながらも必要以上のものを求めて止まない私欲は器の容量を超えて無理に詰め込む様態に似て自殺行為にも等しいものがあります。欲の制御は先ずあるものと現在必要でないものは求めない、これが一番と思われます。古人の格言に「起きて半畳、寝て一畳、お殿様でも二合半」があり、あるが上にも際限なく求め続ける貪欲強欲の愚かさを言い当てています。この世は欲と二人連れですから、良い関係を保ちつつ楽しく過ごしたいものです。